所在地:南アルプス市上野
別 名 :椿城
築 城 : −
初城主:武田氏
区 分 : −
遺 構 : −
城 域 : −
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【訪 城】2007年8月
【撮 影】2007年8月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

上野城は上野集落の北側、一段高い丘陵地の先端にある本重寺を中心とした一帯で、本重寺の北西約100mの畑地の中に上野城の石碑が建てられており、ここが本丸跡とされる。
地形的には、北には坪川が東西に流れ、南には堰野川が坪川と並行して流れ、2河川のほぼ中央付近に本重寺は位置している。
城郭遺構は何も残されていないが、本重寺が上野地区にあっては周囲よりも高台となっている地形がわずかに、この地に城のあったことを予感させる。
本重寺の境内には大井信達の墓と共に大井氏一族の墓石が並べられ、粗末な墓石に今となっては武田氏に対抗した大井一族の哀れさを誘う。なお、上野城跡の本重寺は信達の菩提寺で、法名は「本習院殿熊学宗芸庵主」である。

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上野城の創築は加賀美氏をおこした武田遠光の二男・小笠原次郎長清の子・長経の七男・上野六郎盛長が上野の地に城を築いたことに始まるが、付近に椿の木が多いことから椿城ともと呼ばれるようになったといわれる。
その後、武田信武の子信明が大井の庄(中巨摩郡櫛形町、同郡甲西町など)に入り、大井姓を名乗って上野城を居城とした。
信明から6代目の信達は、娘たちを小山出家、逸見家、今井家などに嫁がせ婚姻政策をもって勢力を拡大した。その上駿河の今川氏とも極めて親しく、同盟関孫をも含めた総合力では本家の武田家を凌駕するまでになり、武田家と対立するようになる。
永正12年(1517)10月17日、武田信虎は大井氏の居城・上野城を攻めたが、深田に乗り入れ、人馬共に転倒しさんざんに射倒されて大敗。(妙法寺記)
同年、今川氏親は二千の兵力をもって信虎方の曽根勝山城を占拠した。
永正14年(1517)信虎は妹婿の小山川越中守信有の部将小林道光や信虎の足軽大将の小幡日浄などの奮戦によって都留郡で優位に立ち、また甲府盆地でも態勢を立て直して勝山城の今川勢をようやく孤立させた。
この事態に今川氏親は和睦を考えざるをえなくなり、連歌師宗長を大井信達・信業父子のもとに派遣し、信虎との和睦を取り付けた。和睦の見返りとして信達は娘を信虎に嫁がせた。これが信玄,典厩,信繁の母親となる大井夫人である。
磯貝正義氏は「定本武田信玄」の中で大井夫人が嫁いだのは、永正14年(1517)としているが、広瀬広一氏は「武田信玄伝」の中で永正10年(1513)であるとしており、どちらの説が正しいか定かではない。(高野賢彦著 甲州武田一族衰亡記より)
なお、上野城跡の本重寺は信達の菩提寺で、法名は「本習院殿熊学宗芸庵主」である。
また、高野賢彦は「妙法寺記」に上野城の周囲が“深田”だったと記述されていることから、「上野はそのような土地ではなく、妙法寺記に出てくる大井氏の城は中巨摩郡甲西町の富田城ではないか」としている。
しかし、現地を訪れてみて上野城の北には坪川、南には堰野川が流れており、当時上野城の周囲は深田があった可能性も多いにある得ると感じた。
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