所在地:甲府市古府中町
別 名 :古城
築 城 :永正16年(1519)
初城主:武田信虎
区 分 :館城
遺 構 :土塁,堀,天守台,土橋,
石積み
城 域 :282m×193m
国指定史跡
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甲府駅北口から北へ約3.5km、武田神社
詳細位置はコチラ
武田神社前駐車場に駐車、約20台
【訪 城】2001年9月,2002年10月
【撮 影】2001年9月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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躑躅ヶ崎館跡には大正8年に武田神社が建てられている。この武田神社は武田信玄を祭神として祀り、甲斐国の守護として、また勝運の御利益があるとして、賑わいを見せている。
躑躅ヶ崎館は東曲輪と中曲輪と称する主郭部を中心として、西曲輪,北曲輪(味噌曲輪,御隠居曲輪)、および梅翁曲輪が配置され、それぞれの曲輪周囲には堀が巡らされていたが、現在も明瞭に残るのは主郭部(東曲輪,中曲輪)と西曲輪の周囲である。しかし、丹念に見て歩けば、それ以外にも北曲輪と梅翁曲輪の土塁と堀の一部を確認することが出来る。
武田神社には甲府駅から武田通りを経て、ほぼ直線的に朱塗りの橋を渡って境内に入ることが出来るが、当時の大手は東側の土橋の架かっている所が大手口である。勿論、武田神社正面の石垣は武田神社を建てた時のもので、武田氏当時のものではない。 この躑躅ヶ崎館は信虎,信玄,勝頼と武田氏が最も興隆を誇った時の武田氏の居館であるが、現在に伝えられている曲輪や遺構等は、天正10年(1582)に武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱の以降、甲府城が完成するまでの間、徳川家家臣等が入城した時に改修をした部分とが混在している。
大きくは、信虎,信玄時代の遺構は主郭部(東曲輪,中曲輪)で、その後勝頼が西曲輪と北曲輪(味噌曲輪と御隠居曲輪)を増築し、天正10年以降に入った徳川家臣の平岩親吉時代に梅翁曲輪が造られたとされる。
現在、躑躅が崎の館の規模は東西450m、南北600mほどと推定されているが、「人は城、人は石垣、人は堀」として、城を築かなかった信玄時代の躑躅ヶ崎館は、それほど規模は大きくはなく、150m四方であると考えられている。

躑躅ヶ崎館館の縄張り |
武田家は清和源氏の流れをくみ、源頼義の三男義光(新羅三郎義光)を始祖とし、その子義清が「武田氏」を称したことに始まる。義清の孫の清光が「逸見氏」を称し、清光の子で傍流の義信が武田氏を名乗って信虎、信玄に至っている。
躑躅ヶ崎館は甲斐武田氏が甲斐国を統一し、戦国の雄として最も勢力を伸張した信虎,信玄,勝頼の3代を通じ、領国統治の中枢機関として、政治,経済,文化の中心的な役割を担った館である。
天正3年(1575)に長篠の戦いで大敗した勝頼が、この躑躅ヶ崎館を捨て、新府城に居城を移したのは、皆さんもご承知の通りで、躑躅ヶ崎館は永正16年(1519)に信虎が築いて以後、58年間にわたって武田氏の居館とされていた。
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