所在地:甲州市塩山下於曾字元籏板
別 名 : −
築 城 :鎌倉時代
初城主:於曽四郎光経
区 分 :館城
遺 構 :土塁
城 域 :96m×120m
県指定史跡
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JR塩山駅の南約400m
詳細位置はコチラ

専用駐車場を利用
【訪 城】2001年10月
【撮 影】2001年10月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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現在も廣瀬氏がお住まいで、県指定史跡とは云いながら無遠慮に訪問するのはためらわれ、外周を見せて頂く。
西側には高さ3mほどの土塁が残り、この土塁を壊さず上に登れるように階段を付け配慮されているのはうれしい。東側は屋敷の約半分は廣瀬氏が甲州市(旧塩山市)に寄贈され、現在では於曽公園として解放されているが、こちら側の土塁は踏み荒らされて、高さ1mほどの惨めな姿になっている。一部に二重土塁の痕跡も残るという。
甲州市(旧塩山市)下於曽元旗板に所在する、四周は土手を二重に巡らせ、門は南,西に開いている。現在東西96m、南北120m、山梨県内の中世豪族屋敷として唯一完備したものである。
土塁基底部は10.6mm、高さ3mの豪壮な土塁を囲続し、小字名{ばたいた」とあるところから。土塁上に更に板塀を巡らせた防御施設があったと考えられる。
「於曽」の起こりは平安時代中期の「和妙抄」に記載が見え、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族であった。その後甲斐源氏加賀美遠光の四男・五男がこの地を支配し於曽氏を称した。
この於曽屋敷は加賀美遠光の四男光経、更にその子遠経の屋敷と伝えられ、鎌倉初期の創立である。後に於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族である板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍した。またこの屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、また金製法の作業場があったことから当屋敷はそれら金山関係の役宅とも考えられる。更に今日於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致する。
昭和60年、山梨県埋蔵文化センターが外土塁無い作業場を調査したところ、門の位置が現在より東に12m寄り、その前に土橋・柵列があったことが確認された。
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