所在地:甲府市丸の内1丁目
別 名 :府中城,舞鶴城
築 城 :天正11年(1582)
初城主:徳川家康
区 分 :平山城
遺 構 :本丸,二の丸,
東西南の曲輪,天守台,
石垣
城 域 :500m×500m
県指定史跡
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JR甲府駅南、約300m
詳細位置はコチラ
有料駐車場を利用
【訪 城】2000年7月,2001年10月,
2004年8月
【撮 影】2004年8月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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甲斐というと武田という印象が強く、この甲府城は影は薄いのであるが、残されている遺構はなかなか見応えがある。
平成2年度から10年計画で行われた発掘調査と第1次整備工事も終わり、鍛冶曲輪門,内松陰門,稲荷曲輪門が復元され、2003年には城内の鬼門(北東)に位置してることから艮櫓とも呼ばれ、江戸時代には武器蔵として使われた稲荷櫓が復元された。
2004年8月に訪城した時には、ほぼ工事も終わり、城内はほぼ制限なく見て廻れた。
この甲府城の見所は、砂岩のような黒っぽい石で積まれた野面積みの石垣である。特に天守台の積み方は荒く、石垣の勾配も50〜60度と緩やかで、石垣の積み方としては稚拙ではあるが、打ち込みはギや切り込みハギの石垣と違って暖かみを感じさせる。

復元された稲荷櫓 |
天正10年(1582)武田氏の滅亡後、甲斐は織田信長の領国となったが、同年6月2日本能寺で信長が自刃すると、甲斐は領土拡大を目論む徳川氏と北条氏による戦い(天正壬午をの乱)が起こり、獅子吼城の戦いをきっかけに徳川氏の支配するところとなり、家康は平岩親吉を城代として入れ置いた。
天正18年(1590)豊臣秀吉が関東の北条氏を滅ぼすと、徳川家康は関東に移され、甲斐は秀吉の甥にあたる羽柴秀勝の支配下におかれた。
秀勝は府中に甲府城の築城に着手するが、天正19年(1591)に秀勝が岐阜へ移封され、甲府城の築城を加藤光泰が引き継ぎ、慶長5年(1600)頃に五奉行の一人である浅野長政により完成したとされている。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、甲府城の城代に再び平岩親吉いれ、その後は、家康の九男・義直,忠長,綱重,綱豊など徳川一門が城主となり、城番・城代制が敷かれた。
宝永2年(1705)柳沢吉保が城主となるが、享保9年(1724) 柳沢吉里が大和郡山へ転封された後、甲斐一国が幕府領となった。
明治に甲府城は廃城となり、明治37年(1904)に舞鶴公園として開放された。
昭和39年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和39年には県指定史跡となった。
なお、甲府城に天守台はあるが、天守があったかどうかは定かではない。発掘調査により、5層の天守閣に使われるレベルの鯱、浅野家や豊臣家の家紋の入った瓦や、金箔や朱を施された瓦などが出土しており、浅野長政の時代に天守があったのではないかと推定されている。

整備された土塀と堀 |
【野暮の独り言】
甲府城の歴代の城主は豊臣政権下では、秀吉の甥である羽柴秀勝、五奉行の浅野長政。徳川政権下では徳川一門と大老格の柳沢吉保と親族衆や中央政権の要職についた者がなっており、柳沢家転封の後は幕府直轄領となっている。
これはとりもなおさず、甲府城主が甲斐国の金山経営の重職を担っていたことを暗示している。一説には武田勝頼の時代には甲斐の金産出量が落ちていたともいわれるが、必ずしもそうとは言い切れない。
金山のことでいえば、徳川家康の隠居先が駿府城であったことはよく知られているが、駿府は伊豆の土肥金山や安倍川上流の安倍金山にも近く、徳川政権の金政策の延長線上で家康の隠居先が決まったようにも考えられる。
古来より金山に関する情報は支配者によって隠され続け、文書などもほとんど残されていない。
■甲斐・湯之奥金山
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