横山城
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 城郭の概要
所在地:静岡市清水区谷津二丁目
別 名 :興津城
築 城 :室町期
初城主:興津氏
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,空堀,曲輪
城 域 :240m×200m


 現地への案内
交通機関は車を利用
国道52号線谷津の点滅信号50m先、三晃設備横の道を南に入る
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:駐車場なし
【訪 城】2001年5月
【撮 影】2001年5月

評価項目 見所評価
選地
縄張り
普請
体力消耗度
お勧め度
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


横山城の石碑

 現地の状況
 谷津地区の道幅も狭く、路上駐車もままならない。ようやく車を停める頃には日没近くなり、攻城を断念。小さな小山だが雑木が多く見受けられた、攻城は落葉期がお勧めか。


 城郭の歴史
 この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(または近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎、「承久記」に興津左衛門の名があり、初めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部して以来はその被官となった。
 延文年間(1356〜61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長日記」に残されているが、大永5年(1525)の項には「興津横山の城にて春の雲のよこやましるしなみのうえ」と記されている。そして永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
 この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月、今川氏真さ救援のため出兵した北条氏康の軍は薩捶山(さつた山)に陣取ると、4月29日に撤退するまで90日余りにわたり、興津側を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢がさつた山を攻めた記録も残されている。
 その後武田氏は横山城に城番を置き、支城のひとつとして重要視したと云うが、天正10年(1582)武田氏の滅亡と共に廃城となった。

現地案内板



観光
東海道広重美術館
静岡市由比297−1
TEL 0543-75-4454
・入場料 500円



蒲原宿

由比本陣
 東海道五十三次の15番目の宿場町で本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒があり、今も旧東海道の約1kmになまこ壁や格子、土蔵のある家などが宿場町の名残を留めています。

正雪紺屋
 由井正雪の生家といわれる藍染め屋が旧東海道の町並みに店を開いています。


ハイキング
さつた峠(薩捶峠)

 由比宿と興津宿の間のさつた峠(薩捶峠)からは、安藤広重の絵と同じアングルで富士山を観ることが出来る、お奨めのポイント。



武田軍の駿河侵攻

−三国同盟を破棄した武田信玄の狙い−
 永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  
 信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたとされている。

 信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。

 天文10年(1541)20歳で父・信虎を甲斐から追放して、信濃に版図拡大を求める中で、永禄7年(1564)まで上杉輝虎との11年間に及ぶ戦いが終わってみれば、23年の月日が流れ信玄は43歳になっていた。残された時間の中で、信玄自身の野望を叶える選択肢は今川領への侵攻しかなかったというのが本当のところではなかったか。

−武田信玄と北条氏康の戦い−
 駿河に侵攻した武田軍に対し、今川氏真は1万5千の兵を率いて清見寺に入り、薩捶山(さつた山),八幡平に布陣するも、今川氏の重臣である瀬名陸奥守,朝比奈右兵衛太夫,葛山氏元等の大将格の武将21人が寝返り氏真は駿府に敗走した。敗走する氏真を追うように駿府に侵入した信玄は今川館を焼き払った。
 武田軍の駿府侵攻により、今川氏の家臣の中には武田氏に寝返る者が続出し、葛山城愛宕山城賤機山城丸子城、および持舟城等は次々に落城した。これら諸城の中から駿府の西にあって宇津ノ谷峠を押さえる丸子城に山県昌景を入れ、西駿河に残る今川方への備えとした。  
 こうして駿河へ侵攻した信玄は1ヶ月足らずのうちに駿河の富士川以西をほぼ掌握するが、今川氏真に娘を嫁がせていた北条氏康は激怒し、嫡男・氏政の夫人(信玄の長女)を甲府へ追い返すと、永禄12年(1569)1月北条氏康は4万5千の大軍を率いて薩捶(さつた)山を守備する武田軍を撃退し薩捶山に布陣した。北条軍の動きに対して、信玄は駿府を出て久能山城に本陣を移し、興津の清見寺山に甥の武田信豊を派遣して北条軍と対陣させた。その後、武田軍と北条軍の間で小競り合いはあったが、武田軍は清見寺山に横山城(興津城)を築くなどして興津川を挟んで両軍の対峙は長期化する。
 その間、掛川城の氏真が上杉輝虎と同盟を結び武田軍の背後を牽制するに及んで、信玄は江尻小柴城と久能山城の守備を固めて4月29日に甲斐に帰陣した。
 信玄が駿河から撤兵したとみるや徳川家康は無防備の駿府を占領し、掛川城の氏真に対し駿府返還を条件にして5月17日に掛川城を開城させた。

−駿河に橋頭堡を築く武田信玄−
 永禄12年(1569)6月信玄は矛先を一転して、駿東郡から伊豆方面に兵を進め大宮城を落とすと、10月には武藏鉢形城、滝山城を攻めながら相模に入り、北条氏の居城・小田原城を包囲するも無理攻めはせず、城下に放火するなどして武田軍の武威を示すと帰国の途についた。帰路、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で待ちかまえた北条軍に対し大きな打撃を与えて帰陣した。
 同年12月再び駿河に攻め込んだ信玄は、薩捶山と北条軍の本国相模との繋ぎの城である蒲原城を落とし、薩捶山に籠もる北条軍を孤立させた上で、今川氏真が帰城している駿府を再び占拠した。孤立した薩捶山は自落し、駿府を追われた氏真は北条氏康に頼って大平城に移った。この年、信玄は駿東郡で戸倉城を攻めて北条軍を牽制する一方で、駿河支配の拠点として江尻城を築き、穴山信君(梅雪)を城番として入れた。

 元亀元年(1570)花沢城,徳之一色城を落とすと、遠江を目前にして大井川の渡河地点に近い徳之一色城に着眼した信玄は、遠江攻略の拠点とするため徳之一色城の大改修を馬場美濃守に命じ田中城とした。
 元亀2年駿東郡周辺における北条方諸城への武田軍の攻撃は熾烈を極め、興国寺城深沢城、および長久保城を落とすに至り、10月氏康が57歳で死去すると北条氏政は上杉謙信と同盟を破棄し、再び武田氏のと同盟を申し入れた。北条氏と同盟を結び東方の憂いをなくした信玄は、大井川を越えて遠江に入り小山城を築く一方で三河にも出兵し、徳川家康との対決姿勢を強めていった。


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中井貴一や柴田恭平らが共演




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