所在地:三島市山中新田
別 名 : −
築 城 :永禄年間(1558〜70)
初城主:北条氏康
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,空堀
城 域 :400m×800m
国指定史跡
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国道1号線山中新田
詳細位置はコチラ
・駐車:駐車場50〜60台
【訪 城】2000年10月
【撮 影】2000年10月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★★ |
| 普請 |
★★★ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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お城好きの仲間内では、超有名な北条氏の城。(^^)
何が有名かというと上記写真でも判るように、奇怪な堀が山中に巡らされています。私は初めてみたときには、「何、これが堀?、観光用に造ったのではないか」と思ってしまいました。(^^)
障子堀というのは、文献などから出ている言葉ではなくて、このような堀のことを正確には、「堀内障壁」と呼ぶのだそうです。
この堀の目的は、堀の中の通行移動を妨げるためだとか、関東ローム層で造った堀が崩れるのを防ぐ補強の役目だとか云われていますが、私は堀に入った、あるいは落ちた敵の移動を妨げる目的で造られたのかと考えています。
天気の良い日には、裾野の広い富士山から伊豆半島までも一望できます。
障子堀は北条氏による築城の特徴とされていますが、その障子堀についての記述があるので、参考のために記述しておきます。
【障子堀について】
「軍学の使用例では畝については、ほとんどが「障子堀」と呼称しており・・・・・、畝形阻障の類と混同される危険があるので使用は避けるべきであろう。
池田光雄氏は、いわゆる障子堀の畝のほかに、堀内部の落とし穴なども含めて「堀内障壁」という用語を使用している。」(愛城研報告第4号 城館の堀について 関口和也著)
【畝形阻障】
畝形阻障とは、斜面や曲輪内に堀を連続して設けた遺構を云う。伊藤正一氏によって「畝形阻塞」と命名され、のちに同氏によって畝形阻障と解明された。
山中城の創築は、15世紀中頃に後北条氏進出前に足柄地方から御殿場一帯を支配した大森氏によったともいわれる。しかし、大森氏時代の山中城に関する史料はない。
その後、山中城が武田氏に対する後北条氏側の軍略拠点であったことは、永禄12年(1569)6月、武田信玄の駿東地方の出陣の折り、韮山城、山中城を攻めたと、「甲陽軍鑑」品第三十五にも記述されている。
天正17年12月24日、豊臣秀吉は北条攻めに際し、3月27日三枚橋(沼津)に着陣。韮山城攻め総大将に織田信雄、山中城攻めには羽柴秀次を総大将とし、秀次指揮のもと山中城攻めには中村一氏・田中吉政・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末を加勢とした。また山中城南方からは堀秀政・丹波長重・木付重高・長谷川秀一を向かわせ、北方からは徳川家康の軍勢を布陣させた。
3月29日早朝、豊臣軍の総勢3万余は山中城を包囲し、戦闘は正午に終了したと云われている。
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