所在地:駿東郡清水町下戸倉
別 名 :徳倉城
築 城 :文明(1468−87)
あるいは天文年間(1532−)
初城主:北条氏
区 分 :平山城
遺 構 :土塁・堀切・曲輪
城 域 :750m×300m
標高 75m
比高 60m
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国道1号線玉川の信号を南入る県道144号線から本城山へ
詳細位置はコチラ
・駐車:城下に約10台
【訪 城】2002年2月
【撮 影】2000年2月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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戸倉城は公園化されており、城下の駐車場から約5分で山頂に着く。山頂には展望台が建てられており、この展望台からの眺望はすこぶるよく、韮山城,山中城,鷲頭山砦等の城郭や、駿河,駿東郡,伊豆方面が一望できる。
また、狩野川が大きく蛇行して「コ」の字形の奥まった位置に立地し、三方を天然の堀としており、まさに要衝・要害の城である。ここを北条が対武田に備えて駿河・伊豆国境守備の要として重要視していたことが頷ける。

本城山の山頂より北方(泉頭城方面)
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戸倉城は戦国時代北条氏綱(1486〜1541)が築いたという。主曲輪は本城山の頂上にあって、東西40m・南北30mの平場で、もとは土塁がめぐっていたという。東側に一段下がって袖郭があり空掘りで仕切られている。南側には見張り代の役目を果たした天翔意泡がある。
東曲輪は東方に延びる尾根上にあり、左右から切り込んだ三本の空堀によって、屈折した平場を造る。先端の南東斜面には三段の平場と、反対の北東斜面には空堀切と二段の平場と、その最下段には袖郭がある。
また、主曲輪から北西に下る斜面には空堀を左右からくい込ませた小郭が連続して造られ最下段左手より狩野川へ向かって空堀があった。大手道登り口は龍泉寺山門左手にあって、数段の平場を経て右に曲がり主曲輪に至るが、その中ほど左右に空堀と土橋がある。
西曲輪には本城山西端下で空堀切によって区切られる。それにより左右に九本の竪空堀と陵部に小郭が八幡神社裏まで連続している。八幡神社西側の県道を越えて摩利支天郭があり、ここから烏帽子岳太鼓櫓まで、空堀切と平場がある。外原出口にも小郭があった。城主の居館は龍泉寺内であったという。
永禄11年(1568)から元亀2年(1571)にかけて駿河に攻め込んだ武田信玄と北条氏は、この戸倉城で戦った。また天正8年(1580)、武田勝頼は沼津三枚橋城に本拠を置いて戸倉城を攻撃した。北条方の城将笠原新六郎はよく城を守ったが、天正9年(1581)武田方に寝返って城は武田方のものとなった。
天正10年(1582)武田氏の滅亡と共に戸倉城は再び北条氏のものとなった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城征伐が始まると、北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いたという。
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