大平城(大平新城)
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 城郭の概要
所在地:沼津市大平
別 名 :大平新城
築 城 :元亀年間(1570〜1573)
初城主:北条氏
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切
城 域 :200m×150m




 現地への案内
交通機関は車を利用
国道1号玉川の信号から県道140号線南へ約6km、狩野川新城橋渡ってすぐ
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:円教寺駐車場に約5〜6台
【訪 城】2002年10月
【撮 影】2002年10月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


物見台南側痩せ尾根の堀切

 現地の状況
 大平城は狩野川の西岸大平山に築かれ、尾根伝いに鷲頭山砦を経て,獅子浜城至る。位置的には戸倉城の南約3km、韮山城の北西約4kmと両城のほぼ中間にあって繋ぎの城として機能していたと云うのも頷ける。
 円教寺墓地から登ると5分足らずで東曲輪に出る。削平は不完全な上、緩やかな斜面にも関わらず堀切,竪堀などもなく、防御に対する意識も薄い。前面を狩野川に守られているせいか。主曲輪は谷を隔てた東側に位置し40m×20mほどの広さで、周囲は崖状の斜面に南に伸びる尾根には堀切を隔てて、高所に物見台、狼煙台にも利用されたと考えられる平場(以下、物見台と云う)がある。ここが大平城の南端で、すこぶる眺望がよく戸倉城がすぐ近くに見える。しかし韮山城は山に隠れて見えない。連絡方法は狼煙か!
 この物見台の南側の細い尾根には堀切を設けており、北側(東曲輪)方面よりも、こちらの南側に防御意識が強いのが興味あるところである。
 全般的に各尾根平場に曲輪を配しただけといった感が強いが、南の物見台は細い痩せ尾根を利用し、堀切などを配しているところなどは北条における山城のパターンのひとつを見るような思いがした。同時に、東曲輪や主曲輪の防御意識の薄さから、大平城はこの物見台のためだけに造られた城ではなかったかとも感じた。

 城郭の歴史
 大平新城は円教寺南方に位置する標高90mの丘陵上を主郭とし、尾根を削平して造成した本丸,二ノ丸,出曲輪など構成されている。
 本丸は狭小な曲輪で、南端に高さ3m、長さ30mの土塁が残存する。二ノ丸は二段に削平され、冗談は25m×20mの台形で、下段は北を除いて腰曲輪が廻っている。
 尾根は数戸と南蔵に分岐しているが、2〜3カ所の堀切が設けられており、6mの深さに達するものもある。
 築城は文亀年間(1501〜1504)説もあるが、元亀年間(1570〜1573)に後北条氏によって韮山城戸倉城の「繋ぎの城」として築かれたもので、獅子浜城へ尾根伝いに辿ることもできる。要衝の城であった。初め後北条氏の武将遠山民部が守ったが、のち北条左衛門左氏克が守備し、武田氏の伊豆侵略に備えた。天正8年(1590)の小田原攻めで廃城となった。
現地説明板より

観光
津御用邸記念公園

  沼津御用邸は明治26年(1893)、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営された別邸で、いわばリゾート施設です。

沼津市下香貫島郷2802-1
TEL  055-931-0005
・大人 400円

若山牧水記念館

 千本松原の景観に魅せられた若山牧水は沼津を永住の地と定め、大正9年に一家をあげて沼津に引越し、松原の一角に住宅をもうけます。
沼津市千本郷林1907-11
TEL 055-962-0424
・大人 200円


沼津の日帰り温泉

壱の湯温泉
沼津市戸田1007
TEL 0558-94-4149
・大人 300円

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沼津の居酒屋情報

沼津deナイト
     沼津市観光協会




武田軍の駿河侵攻

−三国同盟を破棄した武田信玄の狙い−
 永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  
 信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたとされている。

 信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。

 天文10年(1541)20歳で父・信虎を甲斐から追放して、信濃に版図拡大を求める中で、永禄7年(1564)まで上杉輝虎との11年間に及ぶ戦いが終わってみれば、23年の月日が流れ信玄は43歳になっていた。残された時間の中で、信玄自身の野望を叶える選択肢は今川領への侵攻しかなかったというのが本当のところではなかったか。

−武田信玄と北条氏康の戦い−
 駿河に侵攻した武田軍に対し、今川氏真は1万5千の兵を率いて清見寺に入り、薩捶山(さつたやま),八幡平に布陣するも、今川氏の重臣である瀬名陸奥守,朝比奈右兵衛太夫,葛山氏元等の大将格の武将21人が寝返り氏真は駿府に敗走した。敗走する氏真を追うように駿府に侵入した信玄は今川館を焼き払った。
 武田軍の駿府侵攻により、今川氏の家臣の中には武田氏に寝返る者が続出し、葛山城愛宕山城賤機山城丸子城、および持舟城等は次々に落城した。これら諸城の中から駿府の西にあって宇津ノ谷峠を押さえる丸子城に山県昌景を入れ、西駿河に残る今川方への備えとした。  
 こうして駿河へ侵攻した信玄は1ヶ月足らずのうちに駿河の富士川以西をほぼ掌握するが、今川氏真に娘を嫁がせていた北条氏康は激怒し、嫡男・氏政の夫人(信玄の長女)を甲府へ追い返すと、永禄12年(1569)1月北条氏康は4万5千の大軍を率いて薩捶(さつた)山を守備する武田軍を撃退し薩捶山に布陣した。北条軍の動きに対して、信玄は駿府を出て久能山城に本陣を移し、興津の清見寺山に甥の武田信豊を派遣して北条軍と対陣させた。その後、武田軍と北条軍の間で小競り合いはあったが、武田軍は清見寺山に横山城(興津城)を築くなどして興津川を挟んで両軍の対峙は長期化する。
 その間、掛川城の氏真が上杉輝虎と同盟を結び武田軍の背後を牽制するに及んで、信玄は江尻小柴城と久能山城の守備を固めて4月29日に甲斐に帰陣した。
 信玄が駿河から撤兵したとみるや徳川家康は無防備の駿府を占領し、掛川城の氏真に対し駿府返還を条件にして5月17日に掛川城を開城させた。

−駿河に橋頭堡を築く武田信玄−
 永禄12年(1569)6月信玄は矛先を一転して、駿東郡から伊豆方面に兵を進め大宮城を落とすと、10月には武藏鉢形城、滝山城を攻めながら相模に入り、北条氏の居城・小田原城を包囲するも無理攻めはせず、城下に放火するなどして武田軍の武威を示すと帰国の途についた。帰路、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で待ちかまえた北条軍に対し大きな打撃を与えて帰陣した。
 同年12月再び駿河に攻め込んだ信玄は、薩捶山と北条軍の本国相模との繋ぎの城である蒲原城を落とし、薩捶山に籠もる北条軍を孤立させた上で、今川氏真が帰城している駿府を再び占拠した。孤立した薩捶山は自落し、駿府を追われた氏真は北条氏康に頼って大平城に移った。この年、信玄は駿東郡で戸倉城を攻めて北条軍を牽制する一方で、駿河支配の拠点として江尻城を築き、穴山信君(梅雪)を城番として入れた。

 元亀元年(1570)花沢城,徳之一色城を落とすと、遠江を目前にして大井川の渡河地点に近い徳之一色城に着眼した信玄は、遠江攻略の拠点とするため徳之一色城の大改修を馬場美濃守に命じ田中城とした。
 元亀2年駿東郡周辺における北条方諸城への武田軍の攻撃は熾烈を極め、興国寺城深沢城、および長久保城を落とすに至り、10月氏康が57歳で死去すると北条氏政は上杉謙信と同盟を破棄し、再び武田氏のと同盟を申し入れた。北条氏と同盟を結び東方の憂いをなくした信玄は、大井川を越えて遠江に入り小山城を築く一方で三河にも出兵し、徳川家康との対決姿勢を強めていった。


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中井貴一や柴田恭平らが共演




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