所在地:田方郡韮山町韮山
別 名 : −
築 城 :延徳3年(1491)
初城主:北条早雲
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,空堀
城 域 :130m×500m
標高 50m
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下田街道(国道136号線)北条の信号を東入る
詳細位置はコチラ

城池駐車場に約10台
【訪 城】2002年2月
【撮 影】2002年2月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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韮崎城は北条氏初代の早雲が堀越公方を滅ぼし、伊豆全土を平定した後に築城した早雲の居城で、天正18年の豊臣秀吉による北条攻めに際しても最後まで落ちなかったなど、
"うんちく" の多い城である。
現地へ行くに、は隣接する江川邸を目印にするのが分かり易い。江川砦の西、城池と称される池の対岸に位置している。城は低い丘ではあるが、展望はすこぶる良く、本丸からは北西方面に戸倉城が望める。
曲輪は南北に走る尾根上に配置され、尾根の両側は崖状の斜面となって落ち込んでおり、東側には城池、西側には韮崎高校があり、韮山高校付近一帯は本丸御殿があったとされる。
西側には伊豆街道(国道138号)が走り、城は西に向かって築城されていたと想像されるが、本丸北側下の虎口は東に開いており、土塁なども東側からの敵を意識して造られている。
これは源頼朝が流された蛭が小島がすぐ西にあり、当時はこの辺りを流れていた狩野川を堀に利用していたようで、城の大手道は東側に開いていたことが推定される。
それにしても、尾根の両斜面が急峻なこと以外、とりたてて堅城の条件を備えているわけでもなく、現在の状況からは秀吉軍北条攻めに際し、4万4千の大軍をわずか3千6百の城兵で守りきったということが信じがたい。
【2002.10再訪城】
韮山城が堅城であったことが理解できず、再度訪城し韮山城の東側の天ヶ岳砦,和田島砦を廻る。
屏風のような山の尾根に築かれた両砦を訪れてみて、はじめて韮山城の堅城ぶりが確認出来た次第です。
その詳細を「韮山城の付砦・天が岳砦,和田島砦攻城記」と題して掲載しています。
【2003.4追記】
韮山城南の天ヶ岳山頂の天ヶ岳砦を中心として各尾根筋に江川砦,土手和田砦,和田島砦、そして金谷砦と5つの砦を配し、韮山城の南方は鉄壁の構えです。
右前方の山を通称「龍城山」といい、ここが戦国時代の代表的な平山城という形式の城として知られる「韮山城」の跡である。韮山城の最初の築城については明らかでないが、「北条五代記」によると、文明年間(1469〜1486)堀越公方。足利政知の家臣外山豊前守が城を造ったのが始まりとされている。
その後、延徳3年(1491)駿河興国寺城にいた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が堀越御所の内部の争いにつけ込み、政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆の領主となり、韮山城を本格的に築城したと云われている。早雲はこの地を本拠として小田原城を奪い、後北条五代の基を築いた。本拠を小田原に移した北条早雲は後に韮山に戻り、永正16年(1519)88歳で没するまで、33年間ここに住んだ。
現在の韮山高校の校舎の付近を今も御座敷といい、早雲の居館跡であろう。小田原北条氏の西方の守りとして、韮山城は重きをなした。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のときには、城主北条氏規(4代氏政の弟)は約4万の大軍に対して、三千の将兵をもって、この城を守り通したのである。
北条氏規が城を退いた後、徳川家康は内藤信成を城主としていたが、慶長5年(1600)移封により韮山城は廃城となった。山の高いところに本丸、ついで二の丸、権現平、三の丸、塩蔵跡や土塁、空堀、内堀などが残っている。
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