所在地:駿東郡長泉町下長窪
別 名 :長窪城
築 城 :天文年間(1531〜1555)
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :土塁,空堀
城 域 :430m×400m
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国道246号線城山の信号を東に入り、右手丘陵地
詳細位置はコチラ
・駐車:城址を周回する道路の北側住宅地の中に駐車場約20台
【訪 城】2002年1月
【撮 影】2002年1月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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長久保城は道路および宅地化により本丸,二の丸,三の丸などの主要な曲輪は消失しており、曲輪として原形をとどめているのは城山神社が祭られている一帯の南曲輪および八幡曲輪だけである。
南曲輪および八幡曲輪の北から西にかけては、見事な土塁が残っている。近年まで三日月堀が残っていたようであるが、今は住宅地となってしまっている。
八幡曲輪は公園化されて、模擬の櫓が建てられているが、不釣り合いで滑稽なことこの上ない。(^^)
三の丸は国道246号線を挟んだ小学校あたりか?小学校前に石碑が建てられている。この小学校周辺には現在も空堀が残っている(?)らしいが、見逃してしまった。
この城の築城時期や築城者は定かではないが室町中期には築城されていたと考えられている。
天文14年に後北条氏方であったこの城を今川氏が攻め、元亀2年(1571)には後北条氏と武田氏の間で争奪戦が行われ、武田氏の領するところとなる。この武田氏の時代に大改修が行われ、対後北条氏の前線基地として機能したと考えられている。
天正10年(1582)武田氏の滅んだ後、駿河は徳川家康が領するところとなり、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康は長久保城を拠点として利用しているが、慶長5年(1600)に廃城となる。
現在も残る遺構は徳川氏および武田氏のものであるとされている。
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