駿河 丸子城(まりこじょう)
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 城郭の概要
所在地:静岡市駿河区丸子
別 名 :鞠子城,宇津谷城
築 城 :応永年間(1394〜1428)
初城主:斉藤安元,今川氏親
区 分 :山城
遺 構 :曲輪,土塁,堀切,空堀
城 域 :800m×350m
     標高 136m 
     比高 100m 




 現地への案内
交通機関は車を利用
国道1号線を藤枝から静岡方面に走り、宇津ノ谷トンネル出て、二軒屋信号を左折、誓願寺前の山
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:誓願寺駐車場に約20台
【訪 城】2000年12月,2003年12月
【撮 影】2003年12月.2008年3月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★★
普請 ★★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



縄張り図@地点の空掘

 現地の状況
 誓願寺の前から丸子の里自然歩道を登れば、約15分で三角山(標高132m)の山頂付近に築かれた本丸に出る。
 この丸子城は今川氏の駿河府中(現静岡市)の西入口を固め、宇津の谷峠を監視する西方の要として機能した時代と、永禄11年に甲斐・武田氏が駿河に進攻してきてからは、田中城と共に駿河西部攻略の拠点とし使われた。

 こうした丸子城の使われ方の変遷を城の縄張りからも読み取れ、今川氏時代の城域を北城とし、武田氏時代に改修された城域を南城としている。

 本丸は三角山の南端に位置し、北に延びる尾根に二の曲輪、三の曲輪、および北の曲輪(今川氏時代の本丸)と連ね、北の曲輪から東に派生する支尾根には階段状に曲輪を配している。

 三角山の山形は東側が急峻な崖状で、自然の要害地形を利用しているが、西側斜面は比較的なだらかであるため、西側斜面には二重の横堀に加え、随所に竪堀と堀切を配している。
 特に、大鑢曲輪(捨て曲輪とも称す)と北城東尾根先端の三日月堀周辺の縄張りにもっとも武田氏らしさを感じさせる。
縄張り図
縄張り図@地点の空掘

 城郭の歴史
 丸子城は今川氏の居城・駿河府中の西方の要として機能し、東方の愛宕山城、詰の城の賤機山城と共に、駿河府中の防御拠点の一つである。

 永禄11年(1568)12月、今川軍を興津河原(清水市興津町)に破った武田軍によつて駿河府中は焼き打ちされ、駿府に陣を布く武田信玄は西駿河に残る今川方諸城に対処するため、重臣山県昌景を丸子城に駐屯させて守りを固めた。

 永禄13年(元亀元、1570)、駿河全域を手中に取めた信玄は、丸子城に諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番として置き、天正6年(1578)頃、城将は屋代勝永に代わった。この間、丸子城の西面に大々的な増築が行なわれ、また城内各所にも手を加えている。

 同9年3月、武田方の拠点高天神城落城を前に、武田勢は徳川軍に丸子城を明け渡して退去した。
 家康は松平備後守を駐留させたが、まもなく関東への転封とともに廃城となった。




観光
片桐且元の墓(誓願寺)

 誓願寺の境内には、賤ヶ嶽の七本槍の一人である片桐且元の墓がある。


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お勧め度



動乱の戦国時代を生き抜き、徳川三百年の礎を築いた徳川家康。その誕生から死に至る75年の波乱の生涯を描いた壮大な歴史ロマン!


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2006年、(財)日本城郭協会により日本100名城が選定され、静岡県では駿府城と共に山中城,掛川城が指定されました。


もっと丸子城を紹介

堀切と空堀
縄張り図A地点の堀切、左下方は空堀


空堀
縄張り図B地点の空掘

堀切
縄張り図C地点の堀切


大鑢曲輪と堀切
縄張り図D地点の大鑢曲輪と堀切


−誓願寺と片桐且元−
 慶長19年(1614年)7月、豊臣家が再建した方広寺の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文字を巡って、徳川方は徳川家康の文字を分断して豊臣を君として栄えると解釈し、家康を呪っているものだとして落慶供養を延期するように命じた。
方広寺(京都)の鐘付堂
方広寺の鐘付堂


 これが方広寺鐘銘事件であるが、この時、豊臣方は片桐且元を駿府に派遣して釈明しようとしたが、片桐勝元は家康と面会することが出来なかった。
 むなしく20日間を誓願寺で費やした片桐且元に、やっと面会が許された時、徳川方は「豊臣家の安泰のために、秀頼が江戸へ参勤するか、淀殿を人質として江戸へ差し出すか、もしくは大坂以外への移封に応じるか」といった難題をふっかけた。
豊臣方に、いずれものめるような条件ではなく、徳川方との交渉に失敗した片桐且元は、この誓願寺で自刃したとの言い伝えがある。

「国家安康 君臣豊楽」と彫られた鐘
「国家安康 君臣豊楽」の鐘

 こうして大阪方を攻める口実を得た徳川方は、慶長19年(1615)11月、大阪城を攻めるための軍を起こすことになる。これが大阪冬の陣である。


 なお、片桐且元の墓は大徳寺玉林院(京都府京都市北区紫野大徳寺町)のほか、小谷城(滋賀県)の東、須賀谷の山中にも建てられている。須賀谷にあるのは、片桐且元の生まれが滋賀県とされており、出生地との関係があるのではないだろうか。
須賀谷の山中にある片桐且元の墓
須賀谷にある片桐且元の墓



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