久能山城
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 城郭の概要
所在地:静岡市根古屋
別 名 :久能寺城
築 城 :建武3年(1336)
初城主:入江駿河守
区 分 :山城
遺 構 :曲輪,土塁,井戸
城 域 :250m×100m
     標高291m
     比高150m
国指定史跡


 現地への案内
交通機関は車を利用
国道150号線久能山下の信号北入る
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:石垣イチゴ・観光用駐車場を利用

【訪 城】2000年12月
【撮 影】2000年12月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


久能山東照宮

 現地の状況
 急峻な階段を20〜25分ほど登ると、一の門に着く。山頂には徳川家康の供養塔があるがここまでは、更に15分ほど登ることになる。
この間、階段の左右に削平地が認められるが、一応立ち入り禁止となっているうえ、スグに断崖絶壁となっているので注意が必要。
 久能山城は岩殿城(山梨県),岩櫃城(群馬県)等と共に、武田の"三名城"と云われており、登ってみると戦国期において、なにをもって名城といっていたのかが実感でき、非常に興味深い。
 しかし、幾つか武田の城を見ている人にとっては、本当に武田氏はこうした城を名城としていたのだろうかという疑問を感じのではないか。峻険な山に拠っただけの城よりも、選地と共に工夫された縄張りを持つ城を名城と呼ぶべきだろう。
 なお、天気の良い日には太平洋が一望でき、景色は抜群。

 城郭の歴史
 久能山城は久能山の山頂に武田信玄が駿河に進攻したときに築いたものである。天正10年(1582)に武田氏が滅びると久能山城は徳川氏の持ち城となる。元和2年(1616)徳川家康が駿府で没すると遺言によって久能山城は廃城され、東照宮の神殿と墓が山頂に造られた。



観光
久能山東照宮

 武田氏の三名城のひとつである久能山城の跡であるが、家康の遺言が柩を久能山に納めよとあったことから、久能山に東照宮が祭られた。


日本平

 眼下には、清水の市街、港、三保の松原、さらに秀峰富士山の雄大な姿が広がり、まさに、日本的景観の一大パノラマを満喫できる景勝地

日本平ロープウェー
日本平動物園

久能石垣イチゴ狩り

山の斜面を利用して、石垣を造り、その間に苗を栽培する石垣イチゴ。福羽を保有するほか、5月まで章姫を狩ることができる。


久能海岸(国道150号線沿い)・大人 1,000円〜2,000円(時期により変わる)



武田軍の駿河侵攻

−三国同盟を破棄した武田信玄の狙い−
 永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  
 信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたとされている。

 信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。

 天文10年(1541)20歳で父・信虎を甲斐から追放して、信濃に版図拡大を求める中で、永禄7年(1564)まで上杉輝虎との11年間に及ぶ戦いが終わってみれば、23年の月日が流れ信玄は43歳になっていた。残された時間の中で、信玄自身の野望を叶える選択肢は今川領への侵攻しかなかったというのが本当のところではなかったか。

−武田信玄と北条氏康の戦い−
 駿河に侵攻した武田軍に対し、今川氏真は1万5千の兵を率いて清見寺に入り、薩捶山(さつたやま),八幡平に布陣するも、今川氏の重臣である瀬名陸奥守,朝比奈右兵衛太夫,葛山氏元等の大将格の武将21人が寝返り氏真は駿府に敗走した。敗走する氏真を追うように駿府に侵入した信玄は今川館を焼き払った。
 武田軍の駿府侵攻により、今川氏の家臣の中には武田氏に寝返る者が続出し、葛山城愛宕山城賤機山城丸子城、および持舟城等は次々に落城した。これら諸城の中から駿府の西にあって宇津ノ谷峠を押さえる丸子城に山県昌景を入れ、西駿河に残る今川方への備えとした。  
 こうして駿河へ侵攻した信玄は1ヶ月足らずのうちに駿河の富士川以西をほぼ掌握するが、今川氏真に娘を嫁がせていた北条氏康は激怒し、嫡男・氏政の夫人(信玄の長女)を甲府へ追い返すと、永禄12年(1569)1月北条氏康は4万5千の大軍を率いて薩捶(さつた)山を守備する武田軍を撃退し薩捶山に布陣した。北条軍の動きに対して、信玄は駿府を出て久能山城に本陣を移し、興津の清見寺山に甥の武田信豊を派遣して北条軍と対陣させた。その後、武田軍と北条軍の間で小競り合いはあったが、武田軍は清見寺山に横山城(興津城)を築くなどして興津川を挟んで両軍の対峙は長期化する。
 その間、掛川城の氏真が上杉輝虎と同盟を結び武田軍の背後を牽制するに及んで、信玄は江尻小柴城と久能山城の守備を固めて4月29日に甲斐に帰陣した。
 信玄が駿河から撤兵したとみるや徳川家康は無防備の駿府を占領し、掛川城の氏真に対し駿府返還を条件にして5月17日に掛川城を開城させた。

−駿河に橋頭堡を築く武田信玄−
 永禄12年(1569)6月信玄は矛先を一転して、駿東郡から伊豆方面に兵を進め大宮城を落とすと、10月には武藏鉢形城、滝山城を攻めながら相模に入り、北条氏の居城・小田原城を包囲するも無理攻めはせず、城下に放火するなどして武田軍の武威を示すと帰国の途についた。帰路、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で待ちかまえた北条軍に対し大きな打撃を与えて帰陣した。
 同年12月再び駿河に攻め込んだ信玄は、薩捶山と北条軍の本国相模との繋ぎの城である蒲原城を落とし、薩捶山に籠もる北条軍を孤立させた上で、今川氏真が帰城している駿府を再び占拠した。孤立した薩捶山は自落し、駿府を追われた氏真は北条氏康に頼って大平城に移った。この年、信玄は駿東郡で戸倉城を攻めて北条軍を牽制する一方で、駿河支配の拠点として江尻城を築き、穴山信君(梅雪)を城番として入れた。

 元亀元年(1570)花沢城,徳之一色城を落とすと、遠江を目前にして大井川の渡河地点に近い徳之一色城に着眼した信玄は、遠江攻略の拠点とするため徳之一色城の大改修を馬場美濃守に命じ田中城とした。
 元亀2年駿東郡周辺における北条方諸城への武田軍の攻撃は熾烈を極め、興国寺城深沢城、および長久保城を落とすに至り、10月氏康が57歳で死去すると北条氏政は上杉謙信と同盟を破棄し、再び武田氏のと同盟を申し入れた。北条氏と同盟を結び東方の憂いをなくした信玄は、大井川を越えて遠江に入り小山城を築く一方で三河にも出兵し、徳川家康との対決姿勢を強めていった。


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中井貴一や柴田恭平らが共演




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