興国寺城
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 城郭の概要
所在地:沼津市根古屋
別 名 :杜若城,久窪城,深田山城,高国寺城
築 城 :室町末期
初城主: −
区 分 :平城
遺 構 :曲輪,土塁,堀切,石垣
城 域 :130m×330m



 現地への案内
交通機関は車を利用
県道22号線、東根古屋バス停前の"興国寺石材"前の道を北へ約500m
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:広い本丸跡に自由に停められる
【訪 城】2002年1月
【撮 影】2002年1月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


本丸櫓台北側の大堀切

 現地の状況
 稲見神社前まで車で乗り付け、案内板を見て、初めて車で通ってきたところが二の丸,本丸であることに気がつく。(^^)
 この興国寺城を築城するに際しては、比較的なだらかな斜面を削平して築城されているような印象をうけるが、本丸の東と西に残る分厚い土塁を観ると、この本丸が山の斜面を削り込んで造られていることが分かる。まるでひとつの丘を取り崩すようなすごい土木量である。
 稲見神社の裏手の小高い丘の上に天守台があり、天守台南側の切岸に石垣が、また天守台には礎石が残っている。また、本丸北側には桁外れに深い堀切が掘られている。本丸を造るための作業量を考えると当然とも云える。

 城郭の歴史
 興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城として有名です。
 早雲は初め伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗して足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮崎城に移り、戦国大名へと成長しました。
 その後、興国寺城は駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主がめまぐるしく替わりました。
 天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大しました。永禄年間には駿河へ進入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を受けました。
 永禄年間の武田,後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持ち城となりました。天正10年(1582)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。
 関ヶ原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康清の逐電により廃城となりました。
現地説明板より

観光
津御用邸記念公園
  沼津御用邸は明治26年(1893)、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営された別邸で、いわばリゾート施設です。

沼津市下香貫島郷2802-1
TEL  055-931-0005
・大人 400円

若山牧水記念館
 千本松原の景観に魅せられた若山牧水は沼津を永住の地と定め、大正9年に一家をあげて沼津に引越し、松原の一角に住宅をもうけます。
沼津市千本郷林1907-11
TEL 055-962-0424
・大人 200円

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お勧め度




お勧め度



武田軍の駿河侵攻

−三国同盟を破棄した武田信玄の狙い−
 永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  
 信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたとされている。

 信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。

 天文10年(1541)20歳で父・信虎を甲斐から追放して、信濃に版図拡大を求める中で、永禄7年(1564)まで上杉輝虎との11年間に及ぶ戦いが終わってみれば、23年の月日が流れ信玄は43歳になっていた。残された時間の中で、信玄自身の野望を叶える選択肢は今川領への侵攻しかなかったというのが本当のところではなかったか。

−武田信玄と北条氏康の戦い−
 駿河に侵攻した武田軍に対し、今川氏真は1万5千の兵を率いて清見寺に入り、薩捶山(さつたやま),八幡平に布陣するも、今川氏の重臣である瀬名陸奥守,朝比奈右兵衛太夫,葛山氏元等の大将格の武将21人が寝返り氏真は駿府に敗走した。敗走する氏真を追うように駿府に侵入した信玄は今川館を焼き払った。
 武田軍の駿府侵攻により、今川氏の家臣の中には武田氏に寝返る者が続出し、葛山城愛宕山城賤機山城丸子城、および持舟城等は次々に落城した。これら諸城の中から駿府の西にあって宇津ノ谷峠を押さえる丸子城に山県昌景を入れ、西駿河に残る今川方への備えとした。  
 こうして駿河へ侵攻した信玄は1ヶ月足らずのうちに駿河の富士川以西をほぼ掌握するが、今川氏真に娘を嫁がせていた北条氏康は激怒し、嫡男・氏政の夫人(信玄の長女)を甲府へ追い返すと、永禄12年(1569)1月北条氏康は4万5千の大軍を率いて薩捶(さつた)山を守備する武田軍を撃退し薩捶山に布陣した。北条軍の動きに対して、信玄は駿府を出て久能山城に本陣を移し、興津の清見寺山に甥の武田信豊を派遣して北条軍と対陣させた。その後、武田軍と北条軍の間で小競り合いはあったが、武田軍は清見寺山に横山城(興津城)を築くなどして興津川を挟んで両軍の対峙は長期化する。
 その間、掛川城の氏真が上杉輝虎と同盟を結び武田軍の背後を牽制するに及んで、信玄は江尻小柴城と久能山城の守備を固めて4月29日に甲斐に帰陣した。
 信玄が駿河から撤兵したとみるや徳川家康は無防備の駿府を占領し、掛川城の氏真に対し駿府返還を条件にして5月17日に掛川城を開城させた。

−駿河に橋頭堡を築く武田信玄−
 永禄12年(1569)6月信玄は矛先を一転して、駿東郡から伊豆方面に兵を進め大宮城を落とすと、10月には武藏鉢形城、滝山城を攻めながら相模に入り、北条氏の居城・小田原城を包囲するも無理攻めはせず、城下に放火するなどして武田軍の武威を示すと帰国の途についた。帰路、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で待ちかまえた北条軍に対し大きな打撃を与えて帰陣した。
 同年12月再び駿河に攻め込んだ信玄は、薩捶山と北条軍の本国相模との繋ぎの城である蒲原城を落とし、薩捶山に籠もる北条軍を孤立させた上で、今川氏真が帰城している駿府を再び占拠した。孤立した薩捶山は自落し、駿府を追われた氏真は北条氏康に頼って大平城に移った。この年、信玄は駿東郡で戸倉城を攻めて北条軍を牽制する一方で、駿河支配の拠点として江尻城を築き、穴山信君(梅雪)を城番として入れた。

 元亀元年(1570)花沢城,徳之一色城を落とすと、遠江を目前にして大井川の渡河地点に近い徳之一色城に着眼した信玄は、遠江攻略の拠点とするため徳之一色城の大改修を馬場美濃守に命じ田中城とした。
 元亀2年駿東郡周辺における北条方諸城への武田軍の攻撃は熾烈を極め、興国寺城深沢城、および長久保城を落とすに至り、10月氏康が57歳で死去すると北条氏政は上杉謙信と同盟を破棄し、再び武田氏のと同盟を申し入れた。北条氏と同盟を結び東方の憂いをなくした信玄は、大井川を越えて遠江に入り小山城を築く一方で三河にも出兵し、徳川家康との対決姿勢を強めていった。


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1988年放映のNHK大河ドラマのBOX第1弾
中井貴一や柴田恭平らが共演







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