所在地:伊豆市柏久保字城山
(旧修善寺柏久保字城山)
別 名 : −
築 城 :鎌倉時代
初城主:狩野茂光
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切,石塁
城 域 :120m×30m
標高 180m
比高 100m
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(修善寺駅の真東600〜700m
詳細位置はコチラ
駐車:天桂寺の境内を利用させて頂いた。近くに柏久保の公民館にもスペースがあるが無断駐車は厳禁
【訪 城】2003年2月
【撮 影】2003年2月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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柏久保城は狩野川と大見川が合流点の東側に位置し、修善寺の町を見下ろす愛宕山山の山頂に築かれ、元々は狩野城の出城であったとされている。
麓の天桂寺から登ると5分ほどで尾根に出る。尾根で麓の村社一宮神社からの道と合流し、更に5分ほどで主曲輪に到着する。主曲輪を中心に東西の尾根に曲輪を配しているが、曲輪の南北、および東は崖状の急斜面で、登ってきた西側尾根だけが比較的なだらかな地形となっている。
柏久保城の主要部は3つの曲輪からなっているが、いずれも削平は不完全である。
主曲輪と考えられる中央部の曲輪南側(狩野城側)に土塁が築かれ、土塁の内法は拳大の石が詰まれている。こうした石積みは後北条の城では珍しい。
主曲輪から見た狩野城方面の眺望
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主曲輪から南の方角の木々が伐採されておりに、南西約4km先の狩野城方面の眺望が良くきく。この城が狩野氏の籠もる狩野城を攻略するために北条早雲が築城したという歴史にちなんで、地元の方が見通しが利くように配慮されているのあろうが、狩野城に関する案内はない。
狩野城は主曲輪から220度の方角であることは分かったが、実際にどの山か特定できなかった。
修善寺駅東方に位置し、愛宕山(標高180m)の山頂にあり正面に富士山を望む景勝の地にある。
明応2年(1493)興国寺城(現沼津市根方)の城主であった伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)は、堀越御所に足利茶々丸を攻め滅ぼし、伊豆制圧を果たすための狩野一族を攻める足がかりとして柏久保城を築いたと云われている。
明応6年(1497)4月狩野氏との間に激しい戦いを展開したが、大見三人衆の働きにより勝利を収めることが出来た。今でも北側には新九郎谷の碑と、南側に地獄沢の地名が残っており激戦を物語っている。
伊勢新九郎長氏は狩野氏を滅ぼした後も、この柏久保城を韮山城の出城として利用していたとされている。
なお、上記修善寺町の解説の中で、柏久保城を築いたのは伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)とされているが、通説は狩野茂光が築いたもので、伊勢新九郎長氏はこの柏久保城を利用したとされているので、念のために追記しておく。
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観光
日枝神社の西には義朝の第6子・源範頼の墓がある。鎌倉初期、源範頼は兄・頼朝に命じられ弟義経とともに義仲を倒し一ノ谷の合戦で平家を破り功によって三河守に命じられた。
1193年の曽我兄弟仇討ちの時、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、悲しむ政子を慰めて「範頼ある限りご安心下さい」といったことから、幕府の疑いを招き、修禅寺に幽閉され日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。
入浴中に殺された源頼家の悲劇と母政子の情愛
−修善寺奥の院・いろは道−
奥の院はかつて弘法大師が修行した場所といわれる歴史ある寺院で、修禅寺の山門下から奥の院までの間には48の石塔があり、この石塔には「い」から「ん」までの字が彫られており、通称いろは道といわれている。
湯舟川に沿ってのどかな田園地帯を約5kmのウォーキングが楽しめる。
修善寺の歴史施設の案内サイト
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日帰り温泉情報
■天城温泉会館
伊豆市湯ヶ島176-2
TEL 0558-85-2222
・大人 1,000円
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