所在地:駿東郡清水町玉川
別 名 : −
築 城 :弘治年間(1555〜1558)
初城主:後北条氏
区 分 :平城
遺 構 :土塁,空堀,堀切
城 域 :400m×500m
|

国道1号線横の柿田川公園の看板が目印
詳細位置はコチラ
・駐車:柿田川公園駐車場に約100台
【訪 城】2002年10月
【撮 影】2000年10月
|
| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★★ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
|

泉頭城は国道1号線横の垣田川公園一帯であるが、国道を東進していて大きな柿田川公園の看板を見落とし、東に住宅地(後で分かったのだが、この住宅地が東曲輪であった)から入ろうと路地に車を進めるが、どの路地も深い谷(三の洞)に阻まれ入ることができない。通りがかりの人に尋ねると、柿田川公園は国道から入るのだという。
泉頭城は南を柿田川、東西を浸食谷に囲まれ、北側(国道側)からしか城域に入ることができないのである。
広い駐車場の一番奥に車を止める。本丸が駐車場になっているということは、事前に知っておりいたのだが、広い駐車場ではたして現在地が縄張り図のどこに位置するのか皆目見当もつかない。
こうなれば、歩いて地形から判断するしかないと、駐車場奥の階段を降りる。いきなり切岸が現れ、遊歩道の柵を乗り越え藪こぎを開始、二つの曲輪を越えると堀切が!「おおー、堀切じゃー」、しかし北条の堀切にしては、小さくないかい?
そんなことが頭の片隅をよぎる。堀切と曲輪を確認したところで、谷筋の遊歩道へと戻ると??「おおー、堀じゃー、それもとてつもなくでっかい堀じゃ〜」
堀の上を見ると住宅地?そう、この堀は先ほど住宅地の中で行く手を阻んだ浸食谷であった。
浸食谷をそのまま利用しているのか、それとも手を加えたのかは定かではないが、やっぱり北条の堀はスケールがでっかい。
こんな調子で歩き廻り、西曲輪(柿田川公園の芝生公園)に建てられている泉頭城の縄張りの書いている案内板をみて初めて自分の位置を確認した次第です。
とにかく城域が広く、スケールも大きいうえに、曲輪が公園や駐車場に変わっているため、全貌がつかみづらい状況です。縄張り図を持っていかれた場合でも、最初に現地の案内板が建っている芝生公園に行かれた方がよいと思います。
肝心の遺構はというと、国道1号線が城域を貫通しており、北曲輪は消失し、本丸は柿田川公園の駐車場となってしまっている。そのほか東曲輪は住宅地となり等々、現在残っているのは西曲輪と本丸南側の舟曲輪など一部の曲輪だけが残っている状態ですが、残されている曲輪と、一の洞,二の洞,三の洞などと称せられる深い谷は当時の面影を残しており、いかに泉頭城が堅固な城であったかがよくわかります。
 |
さて、城域を一周して本丸跡の駐車場へ戻ってみると、駐車場(本丸)よりも国道(北曲輪)のほうが高いことに気がつきました。三方を川と浸食谷に囲まれ、本丸を低地に構え、「穴蔵の城」と云われている小諸城と同じ地形です。
小諸城は山本間助が選地し縄張りをしたとされる名城ですが、北条方にも山本間助のような築城の名手がいたのでしょうか。後年徳川家康が隠居所としようとしていたことからも堅固な地形に築城されていたということが窺い知れます。
泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15〜16世紀)の城郭です。
城域は東西400m、南北500mあり、二ノ洞,三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北ノ曲輪,東ノ曲輪,西ノ曲輪,舟付曲輪,小曲輪,第六天曲輪,南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人口の空堀で防御されており、土橋と木橋で結ばれていました。
この城は戦国時代の終わり頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目を果たしていました。永禄12年(1569後五北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆戸倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵略に備えました。
天正8年(1580)武田勝頼の攻撃には荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将がそれぞれ百騎づつ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正9年(1581)戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条は泉頭城を破棄し、城兵は韮山城と山中城へ引き上げました。
元和元年(1615)徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、本多正純に隠居御殿の城を造営することを命じましたが家康が没したので取りやめになりました。その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたと云うことです。
|
|