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| 【城郭の概要】 所在地:浜松市天竜区二俣町二俣 別 名 :蜷原城 − 築 城 :文亀年間(1501〜1504) 初城主:二俣氏 区 分 :平山城 遺 構 :空堀,土塁,石垣,天守台 面 積 :350m×100m 標高 90m 比高 約50m |
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・国道152号線二俣町 ・遠州鉄道二俣本町駅から徒歩10分(約1km) 詳細位置はコチラ ![]() ・山の中腹に15台程度の無料駐車場あり ・撮影:2000年4月,2008年3月
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【現地の状況】 標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪,本丸,二の丸曲輪,蔵屋敷,南曲輪がほぼ一直線上に配置され、天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は食い違い虎口である。 本丸西側には小規模な天守台が残っており石積みは野面積みである。本丸の南側には二の丸曲輪があり枡形門跡がある。二の丸曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間には堀切がある。
山の中腹まで車で上ることができ、比較的簡単に誰でもが楽しめる城で、天正3年徳川家康が二俣城を落とすために築いた鳥羽山城が南方約1km、天竜川の対岸には和田ヶ島砦,二俣川を挟んでは毘沙門堂砦がある。 なお、二俣城は天正7年(1579年)7月、徳川家康の正妻・築山殿と長男・信康が武田勝頼に内通したとの罪により、織田信長からの要請もあって信康が自害した城としても知られている。 信康の墓は家康が菩提を弔うため建立した清龍寺(二俣小学校の北)にある。
【城郭の歴史】 二俣城は、元々文亀年間(1501〜1404)に今川氏の被官によって築かれた城であるという、その後徳川氏の攻略するところとなり、徳川氏の支城となる。 元亀3年(1572)遠江に進攻した武田信玄は匂坂城(さきざか)を攻略後、合代島(現在では社山城という説が一般的である)に布陣し、勝頼を大将として徳川軍が守備する二俣城を囲んだ。 武田軍は要害の二俣城を攻めあぐむが、武田軍は城兵の主命線の水の手である天竜川の井楼を上流から筏を多量に流すことで、水の手を粉砕した。水に苦しんだ城兵は開城し、二俣城は武田軍に帰した。この年、武田信玄は二俣城の修築を命じている。 天正元年(1573)遠江支配をめざす家康は二俣城攻撃のため、周辺の3か所(屋城山・合代島・道々)に付城を築いた。天正3年5月、長篠の合戦で武田軍が大敗すると、家康は二俣城奪還のため更に4か所(毘沙門堂砦・鳥羽山城・蜷原砦・和田ケ島砦)に付城を築き武田軍を包囲した。 同年8月、諏訪原城が家康軍により落城。その後も二俣城は低抗を続けるが、同年12月ついに守将依田信蕃は降伏開城した。 その後、徳川氏の城として機能するが、天正18年小田原の後北条氏が没落し、家康が関東へ移封になるとともに二俣城は廃城となった。 本丸の東側には南北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は喰違い虎口で、その幅約4m。北虎口の前面には、長さ約15mの馬出状の曲輪を設け、南虎口は、幅約4mの桝形虎口となっている。 本丸の西寄りには高さは約5mと小規模ではあるが天守台がある。この天守台は静岡県では数少ない戦国期のものとして貴重な遺構とされている。石垣は石灰岩を用いた野面積みである。 二俣城の現存遺構は、戦国後期の大久保氏時代のものと、武田時代あるいは徳川時代に改修されたものが混在して残っていると考えられる。 |
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