深沢城
HOME静岡県の城郭駿河の城郭
 城郭の概要
所在地:御殿場市深沢
別 名 : −


築 城 : −
初城主:今川氏
区 分 :平城
遺 構 :土塁,空堀
城 域 :300m×330m

県指定史跡



 現地への案内
交通機関は車を利用
国道136号線から県道78号へ入り、城入口から約500m
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:路上駐車
【訪 城】2002年1月
【撮 影】2002年1月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

馬出横の空掘
馬出横の空掘

 現地の状況
 深沢城は抜川と宮沢川が合流する地形を利用して築城されており、川を天然の堀として利用している。三方を川で囲まれており、城への開口部は南西部のみで、その正面に三日月堀を配している。武田氏の好みそうな地形である。
 この城の特徴は三の丸と二の丸、および二の丸と本丸の間に馬出し状の小曲輪を設け、それぞれの虎口空間の防御に工夫がされている。特に二の丸と本丸との間の馬出状曲輪は枡形空間に近く、枡形と見るなら「2折1空間」に近い形状をしている。いずれにしても高度な築城技術が取り入れられている。
 現在の遺構は武田氏時代のものを後年に徳川氏が改修したものではないだろうか・・・・・。

深沢城縄張り図
深沢城の縄張り図

 城郭の歴史
 深沢城は元々、在地領主大森氏一族の深沢氏の城があったが、戦国時代初期は今川氏の城であったと考えられている。今川氏親の時代に、甲斐の武田氏への押さえとして築かれたのではないかと推定されている。
 深沢城が注目を集めたのは、元亀元年(1570)から始まる後北条氏と武田氏の争奪戦からである。
 武田氏の部将駒井右京之進昌直が守る深沢城を北条氏康・氏政父子が攻め、後北条氏の城になった後、今度は北条綱成・松田憲秀が守る城を武田軍が攻める。「深沢城矢文」で有名となった攻城戦は元亀2年から始まり、武田軍の勝利するところとなる。この時に武田軍は三日月堀や馬出しを造り、かなり改修したと考えられている。
 以後、天正10年(1582)の武田氏滅亡まで武田氏の所領となっていたが、武田氏滅亡後は徳川氏が入り、北条の押さえとして三宅宗左衛門をおいたが、天正18年(1590)徳川家康が関東に移封されたため廃城となる。
現地説明板より




観光
駒門風穴

富士山の爆発とともにできた溶岩洞穴のひとつで、総延長409mと規模も富士山麓では最大級。
御殿場市駒門69
TEL 0550-87-3965
・大人 200円

御殿場わさび郷

 富士山を正面に望む広大な富士山森林浴のなか、素朴なウッドデッキの遊歩道から「わさび沢」を自由に見学できる。
御殿場市上小林373-5
TEL 0550-80-3215
入園料は無料


御殿場市観光協会


食事処

御殿場高原ビール内バイキングレストラン
御殿場市神山719
TEL 0550-87-5500


御殿場の日帰り温泉

御殿場市温泉会館
御殿場市深沢2160-1
TEL 0550-83-3303
・大人 500円
mapfan



武田軍の駿河侵攻

−三国同盟を破棄した武田信玄の狙い−
 永禄11年(1568)12月6日甲斐の武田信玄は富士川沿いに南下し、相甲駿の三国同盟を破棄して今川領の駿河に攻め込んだ。(三国同盟の崩壊には永禄11年1月との説もある)  
 信玄の駿河侵攻に呼応するかのように、時を同じくして三河の徳川家康も遠江に侵攻した。信玄と家康がほぼ同時に今川領へ侵攻した裏には、今川義元亡き後国勢の衰えた今川領を大井川を境として東の駿河を武田方が、大井川以西の遠江を徳川方が支配するという密約が事前に交わされていたとされている。

 信玄が今川領に攻め込むに至るには、今川義元の娘を妻としていた嫡男・義信との間に激しい意見の対立があり、信玄は義信の傅役だった飯富虎昌を始めとする親今川派の反逆を押さえ、嫡男・義信を幽閉することで家臣団をまとめ上げなければならなかった。後に嫡男・義信を自害させることになるが、こうしてまで信玄が駿河へ攻め込んだ背景には、甲斐、および信濃と上野にまたがる広大な領土を持ちながらも、海への出口を持たない信玄の海への憧れ、あるいは義元亡き後、弱体化する今川領を徐々に侵略する三河・徳川家康に対する羨望と焦りがあったとも云われる。

 天文10年(1541)20歳で父・信虎を甲斐から追放して、信濃に版図拡大を求める中で、永禄7年(1564)まで上杉輝虎との11年間に及ぶ戦いが終わってみれば、23年の月日が流れ信玄は43歳になっていた。残された時間の中で、信玄自身の野望を叶える選択肢は今川領への侵攻しかなかったというのが本当のところではなかったか。

−武田信玄と北条氏康の戦い−
 駿河に侵攻した武田軍に対し、今川氏真は1万5千の兵を率いて清見寺に入り、薩捶山(さつたやま),八幡平に布陣するも、今川氏の重臣である瀬名陸奥守,朝比奈右兵衛太夫,葛山氏元等の大将格の武将21人が寝返り氏真は駿府に敗走した。敗走する氏真を追うように駿府に侵入した信玄は今川館を焼き払った。
 武田軍の駿府侵攻により、今川氏の家臣の中には武田氏に寝返る者が続出し、葛山城愛宕山城賤機山城丸子城、および持舟城等は次々に落城した。これら諸城の中から駿府の西にあって宇津ノ谷峠を押さえる丸子城に山県昌景を入れ、西駿河に残る今川方への備えとした。  
 こうして駿河へ侵攻した信玄は1ヶ月足らずのうちに駿河の富士川以西をほぼ掌握するが、今川氏真に娘を嫁がせていた北条氏康は激怒し、嫡男・氏政の夫人(信玄の長女)を甲府へ追い返すと、永禄12年(1569)1月北条氏康は4万5千の大軍を率いて薩捶(さつた)山を守備する武田軍を撃退し薩捶山に布陣した。北条軍の動きに対して、信玄は駿府を出て久能山城に本陣を移し、興津の清見寺山に甥の武田信豊を派遣して北条軍と対陣させた。その後、武田軍と北条軍の間で小競り合いはあったが、武田軍は清見寺山に横山城(興津城)を築くなどして興津川を挟んで両軍の対峙は長期化する。
 その間、掛川城の氏真が上杉輝虎と同盟を結び武田軍の背後を牽制するに及んで、信玄は江尻小柴城と久能山城の守備を固めて4月29日に甲斐に帰陣した。
 信玄が駿河から撤兵したとみるや徳川家康は無防備の駿府を占領し、掛川城の氏真に対し駿府返還を条件にして5月17日に掛川城を開城させた。

−駿河に橋頭堡を築く武田信玄−
 永禄12年(1569)6月信玄は矛先を一転して、駿東郡から伊豆方面に兵を進め大宮城を落とすと、10月には武藏鉢形城、滝山城を攻めながら相模に入り、北条氏の居城・小田原城を包囲するも無理攻めはせず、城下に放火するなどして武田軍の武威を示すと帰国の途についた。帰路、三増峠(神奈川県愛甲郡愛川町)で待ちかまえた北条軍に対し大きな打撃を与えて帰陣した。
 同年12月再び駿河に攻め込んだ信玄は、薩捶山と北条軍の本国相模との繋ぎの城である蒲原城を落とし、薩捶山に籠もる北条軍を孤立させた上で、今川氏真が帰城している駿府を再び占拠した。孤立した薩捶山は自落し、駿府を追われた氏真は北条氏康に頼って大平城に移った。この年、信玄は駿東郡で戸倉城を攻めて北条軍を牽制する一方で、駿河支配の拠点として江尻城を築き、穴山信君(梅雪)を城番として入れた。

 元亀元年(1570)花沢城,徳之一色城を落とすと、遠江を目前にして大井川の渡河地点に近い徳之一色城に着眼した信玄は、遠江攻略の拠点とするため徳之一色城の大改修を馬場美濃守に命じ田中城とした。
 元亀2年駿東郡周辺における北条方諸城への武田軍の攻撃は熾烈を極め、興国寺城深沢城、および長久保城を落とすに至り、10月氏康が57歳で死去すると北条氏政は上杉謙信と同盟を破棄し、再び武田氏のと同盟を申し入れた。北条氏と同盟を結び東方の憂いをなくした信玄は、大井川を越えて遠江に入り小山城を築く一方で三河にも出兵し、徳川家康との対決姿勢を強めていった。


HOME静岡県の城郭駿河の城郭

NHK大河ドラマ
武田信玄がDVDで発売




1988年放映のNHK大河ドラマのBOX第1弾
中井貴一や柴田恭平らが共演




歴史シミュレーションゲーム



インターネットで対戦できる歴史シミュレーションゲーム。シリーズ作「信長の野望」のシステムを継承しつつ、ネット上の大名と対戦できる。





近江の城郭 近江の城郭に戻る