
【現地への案内】
国道141号線、臼田町の下小田切の信号から県道93号線に入り龍岡城方面へ
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【駐車場】龍岡城の専用駐車場を利用
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
龍岡城は慶応3年(1867)に竣工されたとされるが、実際には完成に至らないまま明治維新を迎え、建物などは取り壊されている。周囲を廻ると五稜郭の形状はしているものの、堀などは半分ほどしか完成していない。
現在は城内に田口小学校が建てられ、大手口が学校の正門として使われている。
龍岡城の縄張り
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【城郭の歴史】
信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来160年間、三河に本拠を持ち、佐久には陣屋をおいて、領内22か村の統治を続けてきたが、11代乗謨になって、幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)3月着工、慶応3年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。
用地一万坪は田野口村より、石材、木材などは領地より献納、総工費4万円余りであった。
藩主乗謨(のりかた)は学才見識共に優れ、幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁窓の要職につき明治に入っては、佐野常民と共に赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、また賞勲局総裁などを歴任した。築城にあたっては稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が成立した。そしてこれより4年前完成した函館五稜郭と共に我が国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後明治5年、城は取り壊しとなったが、幸い堀と石垣、建物の一部大台所を残している。
龍岡城の堀
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