| 田口城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:佐久市臼田町田口字城山 別 名 : − 築 城 :戦国時代 初城主:田口氏 区 分 :山城 遺 構 :堀切,横堀,石垣 城 域 :700〜800m×200m 標高 881m 比高 150m |
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【現地への案内】 国道141号線、臼田町の下小田切の信号から県道93号線に入り龍岡城方面へ 詳細はコチラ ![]() 【駐車場】龍岡城の専用駐車場を利用 【訪 城】2005年8月 【撮 影】2005年8月
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【現地の状況】 田口城は龍岡城の北側正面にそびえる山一帯に築かれており、登るには幾つかのルートがあります。足の弱い人、あるいは軟派の人には本丸横へ車を乗りつけられる林道清川線を利用するのがお勧め。(^^)
硬派の人には西側尾根筋を登るのをお勧めします。かく云う私は蕃松院境内の墓地背後から登りましたが、尾根筋に出るまで道はなく、覆い被さるように密集する和竹の中を藪漕ぎを強いられ、尾根に出てからも志賀城等にも見られる10m〜15mの巨石の垂直の壁に阻まれ、巨石の壁に沿って尾根の北端まで約100m移動してようやく城域へ入るルートを見つけることが出来ました。また、城域が広いため本丸等の城郭の中心部から下山する道を見つけるのに一苦労。一時は登ってきた巨石の崖を降りる覚悟をしましたが、なんとか下山ルートを見つけて下りて来ました。このルートは田口城がいかに堅固な城であるかを実感することが出来ますが、危険ですので何人かのグループで登られることをお勧めします。なお、このルートから登られる場合は、あくまでも自己責任でお願いします。本丸までは40分ほどで着きます。
硬派ではないけれど、歩いて登りたいという人は、龍岡城の駐車場から東へ50mほど先の路地を左折して民家の間を抜けると登り口があります。 林道清川線は「三分」方面から県道120号線を北に走ると、看板が見えます。ただし、県道120号線を南に走った時には看板が見えませんので注意してください。 さて、この田口城は本丸だけでも100m×70〜80mはあろうかという広いもので、本丸を中心に幾つもの曲輪が西側に広がり、とてつもない広い城域をもった城です。それに本丸周辺には石積みも見られ、戦国期以後、どのような経過を経て改修・築城されたのか不思議な気がします。 また、田口城からは龍岡城を眼下に見ることが出来、龍岡城が星形をしていることを確認することが出来ます。これはちょっと感動ものです。(^^) なお、麓の蕃松院には依田玄蕃の墓と伝えられる墓石が残っています。残念ながら私は見損ねてしまいました。(^^;
【城郭の歴史】 天文年間(1532〜55)武田氏の佐久侵入によって田口城は武田氏の支配するところとなるが、田口長能は天文17年の上田原の戦いで敗れた武田氏に抵抗を試みるも、敗れて田口氏は滅亡する。 天正10年、阿江木氏依田能登守が守っていたが、徳川家康の命を受けた依田玄蕃によって落城する。 |
甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。 |
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