| 仙当(せつと)城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:下水内郡栄村堺 別 名 : − 築 城 :戦国時代 初城主:市川氏 区 分 :山城 遺 構 :横堀,土塁,堀切,土橋,竪堀 城 域 :300m×200m 標高 460m 比高 180m |
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【現地への案内】 国道177号線平滝から県道407号線に入り、百合居橋を渡り月岡地区から南へ林道に入る。林道入り口に月岡区長名で建てられた「入山のお願い」の看板がある。直進すると二つ目の看板があり、道が二股に分かれているが、ここも直進し、仙当城のある舌状尾根を回り込む形で車を走らせる。三つ目の看板を左手に曲がるとすぐ左手に未舗装の林道が左手前方向に曲がる形である。この林道を約1km走った林道の終点にある。 詳細位置はコチラ ![]() 【駐車場】林道脇に駐車 【訪 城】2003年9月 【撮 影】2003年9月
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【現地の状況】 仙当城は自然の渓谷に東西を挟まれた舌状台地の中腹に位置し、見事な遺稿を残す中世城郭である。林道終点から旧道に入るが、この道は現在では全く使われておらず藪漕ぎをしながら100mも進むと、ブナ林の中に忽然と空堀が現れる。そのスケールの大きさと非常に状態良く残された遺稿に、誰しも感嘆の声を上げることは間違いない。
この空堀は二の曲輪の外周を半円形にとりまき、北の自然谷に堀切となって落ち込む。この堀切の長さ100m以上に及ぶ。 そのスケールの大きさは筆舌し難く、例えるなら小田原城の小峰の空堀をであるが、それ以上と云っても決して過言ではない。 三本の空堀によって形成された三日月状に湾曲した土橋を渡って二の曲輪の虎口に至る。 この土橋には二の曲輪からの横矢掛け施されている上、虎口は2折れとし縄張り的にも高度な築城技術が見られる。この二の曲輪の形状は武田の丸馬だしを思わせるが、その目的からすると全く異質のものである。 二の曲輪から主曲輪へは、二の曲輪周囲から延びた堀切と、二の曲輪東側に掘られた空堀とで形成された長さ30mほどの土橋を渡って入るが、東側の空堀の大きさが中途半端ではない。私が今までに見てきた中世城郭における空堀の中でも、そのスケールは1,2である。ここでも例えて云うなら、千福城(静岡県裾野市)の空堀であろうか。 そのほかにも、この城の見所はつきないが、一言でいえば、曲輪の面積よりも空堀のしめる面積の方が大きいといえるほど空堀が大きく、非常に考えられた縄張りであると云える。
仙当城を見てきて、私なりの所見をいくつか入れておきたい。 一つ目は、一般に中世城郭は地形の要害さを利用して築かれるのが常であるが、この仙当城はさして要害地形とは思われない地形に見事な縄張りをもって城を築いている点は特筆される。 二つ目は、空堀に薬研堀と箱堀を使い分けている点である。二の曲輪から北に向かって落ち込み堀は薬研堀とし、二の曲輪と主郭の間の堀は箱堀としている。 薬研堀としているのは、谷筋を登ってくる敵を誘い込むための意識が感じられる。 三つ目は、二の曲輪を中心とした南側の城域と、主曲輪から北側の城域において、明らかに堀等、防御施設のパーツの大きさ、配置パターン、および築城思想に違いが認められる。これは当初、市川氏が主曲輪を中心として北向き(月岡地区)に築城したものを、後年に上杉氏などの戦国大名が二の曲輪を中心に南向きの城に城域を広げた結果ではないかと考えられる。 この地域で起こった戦いの経過からすると、武田軍と上杉軍との戦いの中で改修された可能性も考えられるが、縄張りの技巧性から考えると、それよりも後年と云えるのではないか。 【城郭の歴史】 長野県北東部、千曲川両岸の山間部は鎌倉時代からこの地方に台頭した市川氏の領有地であるが、武田信玄の奥信濃進出を機に、信玄とよしみを通じ、奥信濃が武田軍と上杉軍の戦場化するに至ってこの地を去った後は不明。 |
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