| 妻女山 |
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| 【城郭の概要】 所在地:長野市松代町清野 別 名 : − 築 城 : − 初城主: − 区 分 :陣城 遺 構 :土塁 城 域 : − |
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【現地への案内】 国道403号線岩野駅前から東へ500m、南入る 詳細はコチラ ![]() 【駐車場】路上駐車 【訪 城】2003年9月 【撮 影】2003年9月
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【現地の状況】 海津城(現在の松代城)から西に約1.5km、千曲川の南岸に位置し、上杉謙信の本陣跡として公園化、整備されている。 六文銭の紋の入った瓦で葺いた神社が祀られている周囲には、高さ0.5mほどの低土塁が巡らされており、この場所に謙信が本陣を構えたのではないだろうか。 展望台からは海津城,八幡原の古戦場、旭山城、葛山城を擁する山々が一望に望める。謙信が本陣を構えたのが頷ける地形である。
なお公園には、上杉謙信が夜陰に雨宮から千曲川を渡ったときのことを詠った頼山陽の詩、 "鞭聲肅肅夜河を過る、曉に見る千兵の大牙を擁するを、遺恨なり十年一劍を磨き、流星光底に長蛇を逸す〜" の一文が刻まれた「川中島合戦」 の碑が建てられている。 【城郭の歴史】 永禄4年(1561)のこの合戦は、武田信玄と上杉謙信が一挙に勝敗を決すべく、両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いである。
上杉軍は8月16日に海津城の向の妻女山に1万3千の陣を置き、武田軍は茶臼山から8月29日に海津城へ入り兵力を2万とした、武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃を掛け、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を実行したが、上杉軍はそれを見破って、9月9日の夜密かに山を下って雨宮から千曲川を渡った。9月10日川中島は霧の深い朝だった。 上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ、大混戦となり、「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが、大苦戦を強いられてしまった、しかし、妻女山に向かった別働隊の到着によって攻守は逆転し、上杉軍は善光寺へと敗走したのである。 そんな中で両雄一騎打ちが戦いのハイライト。萌黄の胴肩衣をつけ、頭を白い布で包んだ騎馬武者の謙信が、間髪を入れず信玄めがけて三度斬りつけた。信玄は持っていた軍配団扇でとっさに受け止めたが、後で見てみると刀傷が7ヶ所もあったという。 この合戦は信玄の弟典厩信繁をはじめとして6,000余名が戦死した大激戦であったが、結局勝敗はつかなかった。 【2004年2月21日追記】 ようやく中田正光氏著書の「戦国武田の城」を入手した。 この中で中田氏は千曲川南岸の武田の城塞群のまっただ中、つまり妻女山に上杉謙信が陣を構えたことを疑問視されてる。これは私が初めて川中島合戦の概要を知ったときからの疑問点でもあり、共感を覚えるところである。 しかし、もう少し論理的な解説が欲しいところである。尤も、400年以上前のことを、まして戦いのことであり、論理的に説明を付けるのが難しいことは十分に理解できるのだが・・・・・。 |
また翌天文22年(1553)には、信濃の北部から中東部一帯を支配していた村上義清の居城・葛尾城を落とし、なおも塩田城に立て籠もる村上義清を攻めた。居城・葛尾城を落とされ塩田城も攻め落とされるに及んで、村上義清は越後・春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)を助けを求めた。 前年の天文21年、主家筋にあたる関東管領・上杉憲政が北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきたことで、秩序を重んじ正義心に燃える上杉謙信は、北条氏康討伐のために関東に出兵していたが、村上義清の援助要請と共に、北信濃まで勢力を拡大してきた信玄に脅威を感じ、武田軍を駆逐すべく信濃にも出兵することを決意した。 こうして、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は善光寺平を中心とした千曲川流域で、天文22年から永禄7年(1564年)までの11年の間に5度戦うことになる。これが世に云う川中島の戦いである。
信玄が今川義元に調停を依頼し、10月に講和が成立。武田軍が旭山城を破却し善光寺平を非武装地帯とすることと、武田氏が北信濃の豪族に旧地を返すことを条件に両軍は兵を引いた。
飯山城は北信濃から越後・春日山城に至る飯山街道(国道292号線)を押さえる位置にあり、飯山城が落とされると景虎は信濃進出の重要な拠点を失うばかりでなく、武田軍の勢力が越後にも及ぶこととなるため、景虎はすぐさま出陣し飯山城を奪還すると、その勢いをもって4月には善光寺平へ押し出し旭山城を修築して本陣とした。 旭山城に陣を構えた景虎に対し、信玄は深志城(松本城)へ帰陣して動こうとはしなかった。8月に入って上野原(戦いの場所については諸説があるが川中島北部、長野市内とするのが有力)で両軍は戦ったが、信玄が直接の対決を避けたため大きな戦いにはならず、景虎は9月に春日山城へ帰陣した。
信玄の調略による切り崩しやゲリラ的な戦法に対し、正面きっての戦いを望む政虎は、8月14日1万8千余の軍勢を率い善光寺に出た上で、5千の兵を善光寺平に残し1万3千の兵を率いて千曲川を押し渡り、武田軍が北信濃の軍事拠点としている海津城(松代城)を見下ろす位置にある妻女山に本陣を置いた。 “政虎来たる”との知らせを受けた信玄は8月16日に出陣し、21日には善光寺平手前の塩崎城に入り、24日には千曲川を挟んで政虎と対峙する形で茶臼山に陣を置いた。茶臼山は政虎が千曲川を渡って越後への帰路にあたり退路を絶つことになるが、政虎は妻女山から動かず、信玄も29日には海津城に入った。 海津城と政虎の本陣・妻女山は約3kmの至近距離で、両者がこれだけの至近距離で対峙したのは信玄との直接対決を望む政虎が千曲川を渡ることで信玄に誘いをかけ、信玄がこの誘いに乗った結果といえる。 9月9日夜、信玄は2万人の兵力のうちから1万2千を別働隊として妻女山の政虎陣に夜襲をかける手はずを整えると、自らは八幡原へ出て夜襲によって妻女山から降りてくる政虎軍を待ちかまえた。
一方、政虎は武田軍の動きから夜襲を察知し、夜のうちに妻女山を下山して千曲川を渡り八幡原に陣を移し、夜明けと共に両軍入り乱れての戦いとなった。 緒戦は、上杉軍が八幡原に陣を構えていると予想していなかった武田軍は不意をつかれた上に、兵力に勝る上杉軍に押され苦戦するも、妻女山に向かった別働隊1万2千余が参戦するに及んで上杉軍は敗走し、結果的には武田軍が大勝した。 この戦いで上杉軍の死者は3千5百、負傷者は1万。武田軍の死者は4千5百、負傷者は1万2千とも云われ、両軍ともに大きな被害を出したが、戦いの結果、善光寺平の北方にある旭山城、葛山城、大峰城等の諸城を押さえた武田軍は善光寺平を掌握することとなった。以後、戦線は北に移り、上杉軍が北信濃の拠点とする飯山城や信越国境近くの野尻城(野尻城と野尻新城の総称)などを巡っての争奪戦となる。
野尻城から輝虎の居城・春日山城までは約30km、喉元に刃を突きつけられた格好の輝虎は急遽関東から帰国し、5月には野尻城を奪回すると、7月に善光寺平に進出し、8月には川中島に陣を張り信玄を持ったが、信玄は千曲川を渡り篠ノ井(海津城の北)まで出陣したが輝虎の誘いに乗らず60日余りの対陣後、10月に輝虎は帰国した。この戦いで輝虎は信越国境近くの野尻城と飯山城を確保したものの北信濃の大部分は武田領に帰した。 こうした戦いの中で千曲川沿いの替佐城,壁田城,髻山城などの諸城が飯山城や野尻城の攻防のために両軍によって利用されたことは推測するに待たないが、替佐城や髻山城は北信濃には珍しい円弧を描いた横堀が入っており武田軍による改修を示唆していると考えられる。
信玄は信濃で輝虎と戦いながも、永禄4年(1561)頃から碓氷峠を越え上野に出て倉賀野城(群馬県高崎市)を攻め、永禄5年には北条氏康と共に武藏の松山城を攻めるなど上杉勢と戦い、永禄6年に松山城、永禄8年には倉賀野城を落とし、翌永禄9年には箕輪城を攻略する等、上野における領土拡大を図る中で、武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に舞台を変えていった。 |
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