| 葛山城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:長野市茂菅字富田(長野市大字鑢) 別 名 : − 築 城 :弘治元年(1555) 初城主:落合氏? 上杉謙信? 区 分 :山城 遺 構 :堀切,竪堀,土塁 城 域 :250m×450m 標高 812m 比高 110m 市指定史跡 |
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【現地への案内】 国道406号線から県道76号線に入り、鑢地区の葛木神社から 詳細はコチラ ![]() 【駐車場】路上駐車 【訪 城】2003年9月 【撮 影】2003年9月
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【現地の状況】 葛山城は善光寺の西約2km、長野市内をまさに見下ろす葛山の山頂に位置している。この葛山に登るには幾つかのルートがあるが、分かりやすいの静松寺からのルートと、鑢(たたら)地区の葛木神社からのルートではないか。今回は登城時間の短い葛木神社から北尾根を経由して攻城した。 葛山神社から杉林の中を登り、北尾根に出ると幾つかの曲輪らしき削平地を経て堀切に出る、この間約10分。、さらに数分登ると小曲輪群があり、削平状態は極めて良好。登り始めて約25分で主曲輪に出る。
主曲輪からは長野市内が一望でき、更に南約2kmには第2回川中島の戦いで、この葛山城の上杉軍と対峙した武田軍の籠もる旭山城が手の届くような位置に見え、鳥肌の立つのを覚える。(^^) この葛山城は長尾景虎(後の上杉謙信)が武田軍の旭山城に対して改修したとされるだけあって、主曲輪を中心に、登ってきた北尾根,東尾根、さらに西尾根に連郭式に曲輪を配した広大な城域の山城である。 主曲輪の東側から東尾根にかけては12条の堀切が連続して配され、南東尾根の斜面には畝状の竪堀群がみられる。しかし熊笹の生い茂り堀切を確認して歩き回るのは容易ではない。この熊笹の中、縄張り図を書かれた人には敬服するばかり。(^^; この辺り一帯を簡単に表現するとすれば、「至る所、堀切,曲輪、そして竪堀あり」と云った状況で旭山側に防御意識の強いのが窺える。なお、この南東尾根を降りると静松寺に出る。
主曲輪から3条の堀切を経た西尾根は山の植生が一変し、熊笹はほとんどなく、遺構は非常に確認しやすい。この西尾根は斜面に小曲輪群を階段状に配置して防御しており、東尾根の堀切,竪堀主体の防御とは思想が異なり、上杉謙信が改修以前の葛山城の形態か。 【城郭の歴史】 葛山城主落合備中守は村上義清に従い、越後の上杉謙信に属していた。城は上杉方の重要な前進基地であった。一報、北信濃を掌中に納めようとする甲斐の武田信玄は弘治3年(1557)2月、越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見計らい、部下の馬場美濃守に命じ1万7千余の大軍でこの城を攻撃した。 城は高い崖の上にあり堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛に自ら進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。しかし、城は水が不自由であった。城兵は的の目に触れる崖から米を落とし水は重文にあるよう見せかけた。武田勢は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め、城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風に煽られた火の勢いは山を包み、防塁は炎の中に崩れ落ちた、城兵必死の抵抗もむなしく備中守は奮戦して討ち死にし、2月15日に落城した。 逃げ場を失った多くの女性達は、峰の上から身を投げて新だ。姫谷と呼ばれる谷底からは、後の世まで女の哀しい泣き声が聞かれると里人は語り伝えている。 本丸跡には城主の嘆きを語る祠が安置され、今でも周囲から焼米が掘り出されると云う。 春、山頂の城跡に立てば、里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世の習いとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
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また翌天文22年(1553)には、信濃の北部から中東部一帯を支配していた村上義清の居城・葛尾城を落とし、なおも塩田城に立て籠もる村上義清を攻めた。居城・葛尾城を落とされ塩田城も攻め落とされるに及んで、村上義清は越後・春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)を助けを求めた。 前年の天文21年、主家筋にあたる関東管領・上杉憲政が北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきたことで、秩序を重んじ正義心に燃える上杉謙信は、北条氏康討伐のために関東に出兵していたが、村上義清の援助要請と共に、北信濃まで勢力を拡大してきた信玄に脅威を感じ、武田軍を駆逐すべく信濃にも出兵することを決意した。 こうして、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は善光寺平を中心とした千曲川流域で、天文22年から永禄7年(1564年)までの11年の間に5度戦うことになる。これが世に云う川中島の戦いである。
信玄が今川義元に調停を依頼し、10月に講和が成立。武田軍が旭山城を破却し善光寺平を非武装地帯とすることと、武田氏が北信濃の豪族に旧地を返すことを条件に両軍は兵を引いた。
飯山城は北信濃から越後・春日山城に至る飯山街道(国道292号線)を押さえる位置にあり、飯山城が落とされると景虎は信濃進出の重要な拠点を失うばかりでなく、武田軍の勢力が越後にも及ぶこととなるため、景虎はすぐさま出陣し飯山城を奪還すると、その勢いをもって4月には善光寺平へ押し出し旭山城を修築して本陣とした。 旭山城に陣を構えた景虎に対し、信玄は深志城(松本城)へ帰陣して動こうとはしなかった。8月に入って上野原(戦いの場所については諸説があるが川中島北部、長野市内とするのが有力)で両軍は戦ったが、信玄が直接の対決を避けたため大きな戦いにはならず、景虎は9月に春日山城へ帰陣した。
信玄の調略による切り崩しやゲリラ的な戦法に対し、正面きっての戦いを望む政虎は、8月14日1万8千余の軍勢を率い善光寺に出た上で、5千の兵を善光寺平に残し1万3千の兵を率いて千曲川を押し渡り、武田軍が北信濃の軍事拠点としている海津城(松代城)を見下ろす位置にある妻女山に本陣を置いた。 “政虎来たる”との知らせを受けた信玄は8月16日に出陣し、21日には善光寺平手前の塩崎城に入り、24日には千曲川を挟んで政虎と対峙する形で茶臼山に陣を置いた。茶臼山は政虎が千曲川を渡って越後への帰路にあたり退路を絶つことになるが、政虎は妻女山から動かず、信玄も29日には海津城に入った。 海津城と政虎の本陣・妻女山は約3kmの至近距離で、両者がこれだけの至近距離で対峙したのは信玄との直接対決を望む政虎が千曲川を渡ることで信玄に誘いをかけ、信玄がこの誘いに乗った結果といえる。 9月9日夜、信玄は2万人の兵力のうちから1万2千を別働隊として妻女山の政虎陣に夜襲をかける手はずを整えると、自らは八幡原へ出て夜襲によって妻女山から降りてくる政虎軍を待ちかまえた。
一方、政虎は武田軍の動きから夜襲を察知し、夜のうちに妻女山を下山して千曲川を渡り八幡原に陣を移し、夜明けと共に両軍入り乱れての戦いとなった。 緒戦は、上杉軍が八幡原に陣を構えていると予想していなかった武田軍は不意をつかれた上に、兵力に勝る上杉軍に押され苦戦するも、妻女山に向かった別働隊1万2千余が参戦するに及んで上杉軍は敗走し、結果的には武田軍が大勝した。 この戦いで上杉軍の死者は3千5百、負傷者は1万。武田軍の死者は4千5百、負傷者は1万2千とも云われ、両軍ともに大きな被害を出したが、戦いの結果、善光寺平の北方にある旭山城、葛山城、大峰城等の諸城を押さえた武田軍は善光寺平を掌握することとなった。以後、戦線は北に移り、上杉軍が北信濃の拠点とする飯山城や信越国境近くの野尻城(野尻城と野尻新城の総称)などを巡っての争奪戦となる。
野尻城から輝虎の居城・春日山城までは約30km、喉元に刃を突きつけられた格好の輝虎は急遽関東から帰国し、5月には野尻城を奪回すると、7月に善光寺平に進出し、8月には川中島に陣を張り信玄を持ったが、信玄は千曲川を渡り篠ノ井(海津城の北)まで出陣したが輝虎の誘いに乗らず60日余りの対陣後、10月に輝虎は帰国した。この戦いで輝虎は信越国境近くの野尻城と飯山城を確保したものの北信濃の大部分は武田領に帰した。 こうした戦いの中で千曲川沿いの替佐城,壁田城,髻山城などの諸城が飯山城や野尻城の攻防のために両軍によって利用されたことは推測するに待たないが、替佐城や髻山城は北信濃には珍しい円弧を描いた横堀が入っており武田軍による改修を示唆していると考えられる。
信玄は信濃で輝虎と戦いながも、永禄4年(1561)頃から碓氷峠を越え上野に出て倉賀野城(群馬県高崎市)を攻め、永禄5年には北条氏康と共に武藏の松山城を攻めるなど上杉勢と戦い、永禄6年に松山城、永禄8年には倉賀野城を落とし、翌永禄9年には箕輪城を攻略する等、上野における領土拡大を図る中で、武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に舞台を変えていった。 |
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