
【現地への案内】
岩松院の駐車場を利用
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【駐車場】路上駐車
【訪 城】2004年5月
【撮 影】2004年5月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
岩松院は城郭もしくは館跡として「図説・長野県山城探訪」に掲載されていたことから訪問することとなったが、まさか福島正則が最終的にこのような所に移封されていたとはまったく知らなかった。ましてここが菩提寺だったとは・・・・・。
福島正則の眠るお堂
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近江人としては、関が原の戦いで東軍に味方した福島正則、石田三成と共に西軍で、徳川家康を相手に戦う選択肢はなかったのだろうかと思うことしきりであった。(^^;)
岩松院は後年に積まれたと考えられる石垣造りの上に建てられていたが、岩松院横の土塁っぽい土盛りが往年の城郭遺構のように感じ取れた。なお、岩松院の裏手に福島正則の宝篋印塔がお堂の中に納められている。
【城郭の歴史】
福島正則は尾張国二ツ寺村(愛知県美和町)に生まれ、加藤清正とともに豊臣秀吉子飼いの武将として活躍。関が原の戦いでは徳川家康に味方し、安芸・備後二国で49万8千石を領する大大名となった。
元和5年(1619)、広島城の石垣修築が武家諸法度に触れたとして信州川中島の内2万石、越後魚沼郡2万5戦国、計4万5千石に減封となった。このときの城明けは後世に伝えられるほど見事であった。
高井野村(高山村堀之内)に屋敷を構えた正則は松川の治水事業などに取り組んだが、寛永元年(1624)7月13日、64歳でこの世を去った。その際幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。
正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。墓は高さ2.5mの五輪塔、土台に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれている。
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