
【現地への案内】
国道306号線、川崎地区の八島橋を渡り、県道637号線を西へ約1.5km、安楽川にかかる野登橋をわたり、東名阪道のすぐ東
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【駐車場】空地を利用
【訪 城】2005年4月
【撮 影】2005年4月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★☆☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
安楽川の右岸の台地上にある。現在では野元坂館の位置を示す碑が道路脇に立てられているだけで、遺構などは確認出来ない。
以前は土塁や空掘が残っていたと云うが、多分茶畑として取り崩されてしまったのだろう。いかにも残念である。
しかし、景清の館が、こんな所にあったとは驚きである。伊勢は伊勢平氏出生の地であり、景清の屋敷があっても不思議ではないのだが、滋賀県の安土町から五個荘町にかけて悪七兵衛平景清が、平氏再興のため、あるいは眼病平癒のために、尾張より京都の清水寺へ通ったと伝えられる道が「景清道」という名前で残っている。この景清道の説には、戦国時代に数多く立てられた関所を避けるための間道(陰道)であるとする見解もある。
滋賀県安土町にある景清道の石碑
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城廻り、あるいは歴史を紐解いて、こういった出会いがあるのは嬉しいものである。
【城郭の歴史】
野元坂館は古くから「景清屋敷」と呼ばれてきた館である。景清は、上総悪七兵衛景清といわれ「三国地誌」は父上総守(介)忠清、子忠光・景清の名をあげ、その姓を伊藤とし、伊勢の人であるとしている。
景清は建保2年(1214)8月15日に没したといわれ、忠清、忠光、景清三代の位牌が鈴鹿郡辺法寺村不動院に安置されているという。また景清の宅地も現存すると云われ、この地の人でないとも記されている。上総忠清、忠光、景清の事跡は、「吾妻鏡」、「平家物語」等にも散見されるが、同一人物であるかどうかは明らかでない。
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