| 采女城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:三重県四日市市釆女町字北山 別 名 : − 築 城 :文治年間(1185〜1190) 初城主:後藤基清 区 分 :平山城 遺 構 :土塁,堀切,横堀,竪堀 城 域 :200m×250m 比高 70m |
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【現地への案内】 国道1号線から釆女町の内部橋手前の県道407号線を線を北西へ約1km 詳細はコチラ ![]() 【駐車場空地を利用 3台ほど駐車可 【訪 城】2004年5月 【撮 影】2004年5月
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【現地の状況】 内部川と足見川の合流点近くから5分ほど山道を登ると、主曲輪と二の曲輪の間に掘られて堀切に出る。二の曲輪は雑木が間引きされ、下草もきれいに刈られており、曲輪の削平状態や曲輪東側と南側の低土塁の状況がよく分かる。 堀切を経て、南側虎口から主曲輪に入る。主曲輪は非常に広く、周囲には土塁が巡らされ、西側と北側にも虎口が配置されており、西側虎口は2折れの枡形構造となっている。中央部には千奈美姫が身を投げたという井戸がある。 北側虎口を抜けると、三の曲輪との間に幅10mほどの巨大な空堀に出る、この空堀を見た瞬間、関東・後北条の城とイメージが重なった。 空堀には幅2mほどの土橋を渡し、三の曲輪とつないでいる。この空堀は主曲輪と三の曲輪を取り巻くように配置され、そのスケールは圧巻である。 北の曲輪は雑木林で下草も多く、状況が掴みづらい、また削平状態も三の曲輪や主曲輪と比べると甘い。
主曲輪の南西側尾根にも空堀を挟んで一の曲輪、西の曲輪と続くが、この曲輪間にも巨大な空堀が配されており、ここでもそのスケールに圧倒される。 北勢には、こうした巨大な空堀と枡形虎口を持つ城が、実はもう1城ある。それは朝明川流域の保々西城であるが、これらの城に残されている遺構は、在地の豪族に手によるものでないことは明らかで、天正期に織豊系の築城技術を継承する勢力によって改修されたことは疑うべくない。 【城郭の歴史】 藤原氏を祖先とする後藤家の後藤兵衛実基は保元・平治の乱(1159)に武功を顕し後藤兵衛門尉基清が検非違使として京都守護に活躍、元久元年(1204)平賀朝雅の討伐に奮闘した。 後藤伊勢守基秀は文応元年(1260)戦陣武功があって三重郡采女郷の地頭職となり、一族郎党を引き連れて采女の地に移住、采女山(北山)に城郭を築いた。以来300有余年、連綿と治政していたが、後藤采女正藤勝の時、織田信長の侵略にあった。 関家・蒲生家に一味して戦ったが、永禄11年(1568)ついに落城した。 言い伝えに因れば、城主藤勝は討ち死にし千奈美姫も主郭の深井戸に身を投げて父の後を追った、哀れなり。
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