
【現地への案内】
国道167号線から鳥羽小学校へ
近鉄鳥羽駅から、南へ徒歩約15分
詳細コチラ 
【駐車場】不明、市役所なら可
【訪 城】2000年12月
【撮 影】2000年12月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★☆☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
近鉄鳥羽駅から国道167号線に沿って南に徒歩約10分。海岸に面した小高い城山に位置している。
現在では本丸跡は小学校のグランドとなり、二の丸跡には小学校が建てられている。公園,市役所,幼稚園等も鳥羽城縄張りの一部に建てられており、遺構は本丸の石垣が残っている。市役所前の道路は堀であったという。
【城郭の歴史】
志摩国を平定した九鬼嘉隆が、天正14年(1586)磯部の恵利原にある「天の岩戸」に参籠し、藍染明王の神託を得て、当時、前島(観音山とも)呼ばれ、三方を海に囲まれた要害を城地と定め、大阪城築城用に三河国幡豆から海上輸送した石材の一部をもって石垣を築き約8ヶ月を要して文禄3年(1591)8月に完成したという。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦のおり、嘉隆は石田三成の西軍、子の守隆は徳川家康の東軍となり、守隆に鳥羽城攻撃の命が下ったが、嘉隆は鳥羽城を灰燼に帰すことを避け、岩倉の田城に移り、西軍の破れたことを知ると慶長5年10月12日答志島の洞泉庵で切腹した。
鳥羽城は寛永9年(1631)守隆が没するまで九鬼水軍の本拠であった。守隆の死後相続問題が起き、翌年二家に分断され五男久隆と三男隆秀は鳥羽城を去った。
その後は内藤,土井,松平(大給),板倉,松平(戸田),稲垣氏と城主が変わり、明治4年に廃城となった。
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