
【現地への案内】
国道163号線から県道305号線を北上、島ヶ原役場北西約500m
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【駐車場】空地を利用
【訪 城】2003年7月
【撮 影】200237月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
姫山は比高30〜40mほどの低い山であるが、ブッシュが激しい。落葉期なら、この程度のブッシュの山ならルートを選ばず登るのであるが、夏場で汗をかいたところへの蜘蛛の巣攻撃には閉口する。そんなわけで登り口を探しているところへ山の持ち主の方が現れ、親切にも登城ルートを案内して頂いた。登城口は道路側から山を半周迂回して南側斜面からついていた。
笹藪をかき分け登り詰めると、土塁造りの幅3〜4mの平虎口に出る。右手は土塁幅が広く、櫓台的な役割を果たしているようだ。
曲輪の南〜東〜北には土塁が巡らされ、南側南東隅に平虎口といった構造で、土塁は山の斜面を切り出して造られいるためか、それぞれの土塁の高さは不均一で、南側土塁高さは1m余りであるのに対し、北側の土塁は5〜6mと高い。
虎口の東側土塁周囲には幅1〜2mの堀が巡らされている。城外から見た場合、堀の深さはさほど無いが、土塁の天端から堀底までは6〜7mはあり、土塁の有効高さを稼ぐ有効な堀配置である。
なお、増地氏城には上の城,下の城があるとされるが、下の城はブッシュが激しく、よく判らなかった。
【城郭の歴史】
治承8年(1180)平氏迫討の兵を挙げた源頼政の臣、渡辺競が宇治川で敗れ、その子渡辺集が平氏の目を逃れて山城国加茂に土着、さらに島ヶ原に移り、島ヶ原十八家として栄えた。城主増地氏はその一家として勢力を伸ばし、島ヶ原の地頭となった。
天正9年(1581)9月、織田信長の伊賀平定の際に、多羅尾口から堀久太郎秀政を大将に、信楽郷小川の城主多羅尾光弘をはじめ二千三百人の兵が進攻してきた。島ケ原の地頭増地小源太は戦うことのむだを悟り、秀政の陣にまかり出て降参の旨を伝えたので、島ケ原は戦火や狼藉から免れたと「伊乱記」は伝えている。
また、「伊乱記」に「笠置口の押えとして増地の要害をはじめとして七郷の構を用意して各楯籠砦を築きて・・・」とあるように、増地氏城を中心に北に恒矢氏城・高瀬城、東に菊岡氏城、南に田槇氏城、川南に奥氏城などが山城の配置となっている。
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