
【現地への案内】
国道477号線と国道306号線の交差点を200m南下、菰野小学校
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【駐車場小学校の駐車場を利用
【訪 城】2004年5月
【撮 影】2004年5月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
菰野小学校正門の西側に高さ3〜4mの土塁と堀跡が残る、堀は排水溝として石とコンクリートで固められてはいるが、土塁と対になっており一目で堀と分かる。
小学校の裏手に回ると菰野城址の石碑が建てられている。
【城郭の歴史】
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、土方雄氏は家康より1万2千石を与えられ、滝川一益の代官所跡を補修し修繕し仮陣屋を設けた。それ以後、12代雄永に至る2970年間土方氏の居城として使われた。
雄氏の頃の藩邸はきわめて簡素であったが、2代目雄高は城の中心部に館を建て、藩邸の整備を行い、領内の藩士を周囲に住まわせた。また四日市街道沿いには東町,庄部,河原町などの街区を整え、城下町造りを行った。3代雄豊は、万治3年(1660)陣屋の全面修理を行い、侍町を含めた地域を城内として、その周囲に柵を巡らし城の東,北,南に木戸をもうけた。その後、藩邸は二度焼失したが新築され、館の周囲に土塁を巡らし、南側に表門、東側に江戸先門が築かれた。西側には孟宗竹の藪を隔てて蔵屋敷が続き、御屋敷の西南と西北側に土塁が築かれ樹木が植えられていた。
陣屋は大手門,玄関,対面所,御用部屋,書淫,奥居間,納戸,台所などに間取りされ、その周りを馬小屋,兵糧庫,武器庫,仲間部屋などが取り囲んでいた。
明治元年(1868)12代雄永の妻・益子姫を迎えるにあたり、領民の全面的な協力を得て急きょ城濠と角櫓の工事が行われた。東西92間(167m)、南北73間(133m)、幅4間(7.3m)の濠が掘られ、濠と振子川が合流する南西角に二層の角櫓が築かれた。明治2年、雄永の版籍奉還後菰野藩庁となり、明治4年廃藩置県により菰野県庁となったが、同年11月菰野県も廃され廃城となった、その後この地に菰野小学校(元菰野小学校)が移り、現在に至っている。
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