| 神戸城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:鈴鹿市神戸本多町 別 名 :本多城 築 城 :弘治年間(1555〜58) 初城主:神戸利盛 区 分 :平城 遺 構 :堀,石垣,天守台 面 積 :900m×600m 県指定史跡 |
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【現地への案内】 伊勢鉄道すずか駅より1km西、神戸高校の西隣 【駐車場】専用駐車場に20台ほど駐車可 【訪 城】2002年4月 【撮 影】2002年4月
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【現地の状況】 神戸城の周囲は宅地化が進み、現在では本丸と本丸北と西側に堀の一部が残っているだけで城郭として見るべきものが残されているとは言い難い。 市街化の進む中、よくぞこれだけ残った云うべきか。【城郭の歴史】 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いたが、戦国時代1550年代にはこの地に神戸城を築いて移った。 神戸氏七代目友盛は北勢に威を振るったが、信長軍侵攻により永禄11年(1568)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。 信孝は天正8年(1580)ここに金箔の瓦を用いた五層の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず石垣だけが残された。 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国する。本多氏の治世は140年間七代忠貫まで続き、明治8年(1875)城は解体される。 その後は堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
【歴史メモ】 織田信長は永禄10年(1567)に伊勢侵攻を開始、後醍醐天皇より伊勢の国司を任じられていた北畠氏や神戸氏を次々に撃破し、二男の織田信雄を北畠氏に、三男の信孝を神戸氏の養子に入れ、実質的に伊勢を掌握する。 信長が本能寺の変に倒れた後、清会議で美濃国を所領した織田信孝(神戸信孝)は岐阜城に移り、柴田勝家,滝川一益等と共に反秀吉で盟約を結び対抗するが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は破れ、勝家滅亡後は、信孝も抗しきれず知多半島の内海の野間・大御堂寺 で自刃する。辞世の句は「昔より 主をうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」 とすざましいものを残しています。 なお、織田信孝の菩提寺は福蔵寺(三重県亀山市関町)にあります。 |
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