所在地:向日市物集女
別 名 : −
築 城 :室町時代後期
初城主:物集女氏
区 分 :平城
遺 構 :土塁,堀
城 域 :80m×80m
標高 25m
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阪急電車洛西口駅から徒歩約10分
詳細位置はコチラ

駐車場は無し
【訪 城】2007年5月
【撮 影】2007年5月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

物集女城は物集女街道(県道67号線)と御所街道(県道201号線)の交差点の南、来迎寺の南側に位置しており、嵯峨から西岡を経て山崎に至る要衝の地に築かれている。
物集女の交差点の南、約50mの地点から西に入れば、幅5〜6mの堀を確認することができる。しかし、水堀ということもあってフェンスが張られている。
来迎寺側へ迂回して西側から、畑地を経て土塁と堀を内部から見ることができるが、私有地であるため一言断ってから見学させて頂こう。
主曲輪、および副曲輪は畑地となっているが、案内板に記載されている櫓台は社が祀られ残されている。
物集女城は中世にこの城域一帯を本拠としていた国人物集女氏の居城跡と考えられています。
長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者6人の中に物集女四郎右衛門尉光重の署名が見られます。この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものでしょう。
織田信長が山城地域を鎮圧した後、天正元年(1573)細川藤高は桂川西岸一帯の一職を与えられ国人等の領土を安堵しました。
安堵を受けた国人等は勝竜寺城の藤高のもとに御礼に参上すべきでありましたが物集女氏の当主忠重入道宗入は代々の自分の領地であり参上する謂われはないと拒絶したため、勝竜寺城で誘殺され、以後物集女氏は衰退しました。
城跡はこの付近にある土塁と堀によって確認できます。土塁は幅7〜12m、高さ1.0〜1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45m分が残っています。
堀は幅5〜10mを測り、深さは1m以上あります。現在も水を貯えている部分は昔から地域の人々の用水池として利用されてきました。
こうした遺構から城は東西100m、南北75mの規模を幽していたことが判ります。大きなムクノキのあるところは少し高くなっており櫓跡と推定できます。 敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主曲輪、東側が配下の者達の住居などのあった副曲輪にあたると思われます。
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