所在地:能美市和田町
別 名 :寺井城
築 城 :永正3年(1506)
初城主:超勝寺
区 分 :平山城
遺 構 :曲輪、空堀
城 域 :130m×250m
標高 36m
比高 25m
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国道8号線の五間堂の信号を東へ約1.5km、歴史民俗資料館の背後の山
詳細位置はコチラ

専用駐車場を利用
【訪 城】2003年11月
【撮 影】 −
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |
和田山は比高20mほどの小山で、20基の古墳群が分布している。和田山城は比較的大きな8号墳と19号墳を曲輪として利用し、古墳の周囲に空掘を巡らすなど独特の城郭造りをしていると同時に、一向一揆衆が古墳に拠って自らを守る城を築いたという点では、なかなか興味深い。
8号墳は方形で、北〜東にかけて、幅4〜5mほどの空掘を巡らせている。主曲輪は19号墳でこじんまりとした前方後円墳で、こちらも東斜面に空掘を配置し、和田山城全体としては東斜面への防御意識が高い。
8号墳と19号墳の間は200mほどで、この間の削平地も曲輪として利用されていたようで、ほぼ中央部に土塁と空掘によって折れの入った虎口を形成している。おそらくこの虎口は、天正期に織田軍が金沢御堂を攻める際、若しくは能美丘陵の一向一揆勢を攻める際に改修したものであろう。
永正3年(1506)の九頭龍川会戦で越前朝倉軍に敗れた超勝寺は越前から加賀に逃れた後、勢力を拡大すると、天文6年(1537)加賀で起こった一揆衆の内乱享禄の錯乱に介入し、加賀3ヶ寺(石川郡の若松本泉寺、能美郡の波佐谷松岡寺、江沼郡の山田光教寺)とその傘下の小一揆を壊滅させて本願寺直轄領として尾山御坊(金沢御堂)による体制が整うまで加賀の一揆を支配した。
乱享禄の錯乱、および加賀3ヶ寺との戦いの中で超勝寺が築いたのがこの和田山城である。
天正期には織田軍が加賀へ侵攻し、天正8年に金沢御堂が陥落すると一向一揆勢は能美丘陵に移った。この時和田山城には佐久間盛政の将・安井左近が入っている。
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