所在地:羽咋郡宝達清水町末森
別 名 :末守城
築 城 :天文19年(1550)
初城主:土肥但馬
区 分 :山城
遺 構 :曲輪,堀切,空掘,土塁
城 域 :800m×900m
標高 138m
比高 118m
町指定史跡
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能登有料道路の今浜インター下車、県道229号線を東、国道159号線との交差点・国道河原で国道159号線に乗り換え北へ約1.5km
詳細位置はコチラ

末森城の駐車場に駐車、約8台駐車可
【訪 城】2000年7月
【撮 影】2000年7月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

国道159号線を走ると、末森城の大きな看板が目に飛び込んでくる。幾つも城廻りをしたが、これだけ大きな看板は静岡県の横地城以来である。やはり前田利家のご当地ということか。(^^)
末森城駐車場から約20分で本丸に着く、西に大手を開き、東を搦手とし、西尾根、東尾根に曲輪を配置した切岸主体の連郭式の城郭で、要所要所には堀切を入れた簡単な造りであるが、本丸前の二の曲輪前面には横堀と堅堀を入れた技巧的な面も見られる。
また、二の曲輪の虎口は二折れ、曲輪側面に沿って道に配した横矢掛け等織豊系の城郭らしき縄張りも確認できる。

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押水の地は能登の中でも最大の荘園で、大泉庄は宝達山系と海岸線が最も狭まった地形にあり、古くから加賀、能登、越中に通じる交通の要となっていた。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、織田信長亡き後の後継者としての地位を確固たるものにした羽柴秀吉に対し、徳川家康は信長の二男・織田信雄と結び秀吉に対抗する。
天正12年(1584)4月9日の長久手の戦いでは徳川家康が勝利したが、戦線は膠着状態となり、4月には両者は軍を軍を引いた。
こうした羽柴秀吉と徳川家康の対立は北陸にも飛び火し、天正12年(1584)徳川家康に組みする越中・富山城の佐々成政は、秀吉方の前田利家の領地である加賀,能登の戦略拠点である能登・末森城を攻める作戦に出た。
佐々成政は9月8日の夜、1万5千の大軍を率いて越中の木舟城を出発し、砺波の宮島から沢川(そうごう)を経て、牛首(現在の津幡地内)に入り、翌9日には末森城から約5kmの坪井山に本陣を構えた。
佐々軍1万5千を迎え撃つ末森城は500名足らずの寡兵で、金沢城の前田利家のもとに援軍要請が出された。要請を受けた金沢城の前田利家は10日に津幡城で後続の前田利長と合流し、11日早朝に末森城から1.5km西方の鯨骨山に着陣し、末森城を包囲する佐々軍と数時間にわたる戦いの末森城に入城した。
援軍を併せても数千の前田軍は奇襲によって佐々軍1万5千を翻弄し、末森城を守り抜き、敗れた佐々軍は河北郡の横山を通り、津幡町の吉倉山から鳥越城を経て倶利伽羅城へと引き上げた。
この末森城の戦いの勝利は、長久手の戦いで敗れた秀吉にとって対徳川家康、織田信雄との軍事的均衡を世に示すことができ、秀吉は11月に織田信雄と講和を成立させ、12月には徳川家康も次男・秀康(のちの結城秀康)を人質に差し出して和議を結んだ。
前田利家はこの末森城の戦いをきっかけとして加賀、能登、越中の三国に支配を広げることになる。
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