所在地:金沢市丸の内町
別 名 :尾山城
築 城 :天文15年(1546)
初城主:一向宗徒
区 分 :平山城
遺 構 :石川門,石垣,空掘
城 域 :6750m×663m
標高 60m
比高 40m
重要文化財 石川門、三十間長屋
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JR金沢駅の南西約1.5km
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兼六園周辺の有料駐車場を利用
【訪 城】2001年8月,2003年11月,2007年3月
【撮 影】2003年11月,2007年3月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

平成13年、金沢城址は「金沢城公園」として再整備され、二の丸菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓が復元されていますが、金沢城の一番の見所は天明七年(1787)に再建された石川門。なまこ壁と鉛瓦で葺かれた白っぽい屋根は、あたかも雪が積もったように見え独特の風情を感じさせます。
なお、2002年(平成14年)のNHK大河ドラマ以後、金沢市内には利家とまつゆかりの観光コースも設定されています。また、市内の野田山にある加賀藩前田家墓地には利家をはじめとする歴代の加賀藩主の墓があり、利家の墓の横にはまつが葬られています。これらの墓は一辺が8〜10mもある巨大な墳墓で一見に値します。
また、尾山神社の東神門は旧金沢城二の丸にあった唐門を移築したもので、金沢城で唯一残る桃山風御殿様式の門である。

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金沢城は加賀百万石・前田利家の居城として知られていますが、金沢城の創築は天文14年(1545)加賀一向一揆が加賀本願寺教団の政庁としてつくった金沢御堂(金沢御坊)とされます。
文明3年(1471)比叡山延暦寺の迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世蓮如は、本願寺系浄土真宗の北陸における拠点として越前と加賀の国境付近の吉崎に道場(吉崎御坊)を建てて布教を開始。蓮如が吉崎を退去した長享2年(1488)、本願寺門徒は吉崎御坊を拠点に蜂起すると加賀国守護・冨樫政親を滅ぼし、以後、天正8年(1580)織田信長に滅ぼされるまでの約100年間「百姓の持てる国」として越後の上杉氏、越前の朝倉氏などの戦国大名にも匹敵する国力を維持し続けます。
加賀一国を支配した加賀本願寺は天文14年(1545)に金沢のほぼ中心部、北に犀川、南に浅野川の流れる尾山に尾山御坊(金沢御堂)を建立して加賀本願寺教団の政庁としてつくった。これが金沢城の創築である。
天正3年越前の一向一揆を制圧した織田軍は、その勢いをかって加賀に侵攻。織田軍の侵攻によって苦境に立たされた本願寺の顕如は天正4年(1576年)2月上杉謙信と講和を結ぶと、翌天正5年、上杉軍と共に手取川で織田軍を撃破。
天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信が急死すると、織田信長は柴田勝家、佐々成政、前田利家等に命じて再び加賀に侵攻。天正8(1580)4月、ついに金沢御堂は攻め落とされ、ここに100年間続いた本願寺による加賀支配は終わりを告げた。
加賀を制圧した柴田勝家は甥の佐久間盛政に石川・河北2郡13万石を与えて金沢御堂に配し、佐久間盛政は金沢御堂を戦国城郭へと改修した。
天正12年、賤ヶ岳で柴田勝家が羽柴秀吉に敗れると、柴田勝家に与していた前田利家は北ノ庄城に籠もった柴田勝家攻めの先鋒となり、戦後は本領を安堵されるとともに佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を加増され、尾山城(現金沢城)に移り、本格的に金沢城を改修。利家の長男・利長の代になって文禄元年(1592)から慶長4年(1599)の間に石垣を築き、城の周囲を内惣構堀で囲み現在の金沢城となったとされます。
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