所在地:小松市波佐谷町
別 名 : −
築 城 : −
初城主:宇津呂氏
区 分 :平山城
遺 構 :曲輪,土塁
城 域 : −
比高 約100m
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粟津温泉か県道163号線を東に走り、県土う161号線に乗り換え、波佐谷町コミュニティーセンター(波佐谷公民館)へ
詳細位置はコチラ

波佐谷コニュニティーセンタ−前に駐車
【訪 城】2007年3月
【撮 影】2007年3月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

波佐谷コニュニティーセンター横から案内板に従って山に入る。谷に沿ってつけられた道は、登るに従い谷との比高差をあげ、5分足らずで松岡寺との岐路に着く。
松岡寺は蓮如の三男連綱が西尾の松岡に庵を結んだのを、その子連慶が当地に移したといわれており、波佐谷城の一翼を担っていたものと考えられ、氷室や土塁を伴った曲輪などが残っている。本堂跡と東に隣接する曲輪との間の谷が堀切とも考えられるが、断定するまでには至らず。
松岡寺から更に5分ほども登ると本丸跡に出る。本丸はなだらかな尾根一帯をさしているようだが、ほぼ自然地形にちかく、何処までが城郭なのか判らなかった。
波佐谷城と松岡寺
室町時代の末期、長享2年(1488)一向一揆の門徒達が当時の加賀守護富樫政親を攻め滅ぼした。それを歴史上珍しい事件として一向一揆と呼ばれている。
その後、加賀国は一向宗徒、つまり百姓の持ちたる国として実に百年間も続いた。その間波佐谷の松岡寺は、山田の光教寺、二俣の本泉寺と共に三山の大坊主といわれ、一揆方を取り仕切っていた。一揆方の勢力が強くなるにつれ越前の朝倉氏とのいざこざが絶えず、その為に加賀一円に城砦が築かれた。波佐谷城もそのひとつである。
天正8年(1580)織田の家臣・柴田勝家によって城は攻め落とされ、城主宇津呂丹波守は討ち死にしている。
波佐谷松岡寺は蓮如の三男連綱が西尾の松岡に庵を結んだのを、その子連慶が当地に移したといわれている。
波佐谷城落城により約50年前、享禄4年(1532)、一向宗徒の内紛によって越前の本覚寺、超勝寺らの大一揆(松岡寺ら一家衆方は小一揆)に夜討ちをかけられ、道慶の子実慶らは自害し、実慶の子顕慶は乳母に抱かれて能登の松波に逃れた。現在の松波松岡寺は、それが再建されたものである。
掌の内御書(小松市波佐谷町町内会長蔵)
織田信長の石山城攻撃は元亀元年から天正8年に至る11カ年に及んだが、雌雄を決せず。攻めあぐんだ信長は天正8年勅命を請うて顕如に和議を申し入れた。
顕如と次男の准如は紀州にいたが、長男の教如はこれに反対して、全国の門徒に抗戦することを通知した。この密書は粟津と波佐谷の門徒宛に出されたもので、掌の中に入るように折りたたまれていたことから「手の内の御書」と呼ばれている。
珠州市鵜飼の妙厳寺にある「笠組の御書」、羽咋市の本念寺の「御書」とともに県下に残る三通のうちの一通で、石山合戦の資料として貴重である。
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