所在地:白山市鶴来八幡町
別 名 :剣城,八幡城,白山城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,空掘,石垣
城 域 : −
標高 193m
比高 約50m
町指定史跡
|

県道45号線、北陸鉄道石川線の加賀一宮駅から東へ約1km、青年の家の裏山
詳細位置はコチラ

青年の家の駐車場を利用
【訪 城】2003年11月,2007年3月
【撮 影】2003年11月,2007年3月
|
| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★★ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

青年の家の裏手から舟岡山遊歩道が舟岡城を一周する形で整備されている。遊歩道を5分も登ると、分厚い土塁とスケールの大きな空掘が土肝を抜かれる。
中核部は出丸と3つの曲輪で構成されており、出丸周囲には空掘を配置し、主曲輪南側には高さ8〜10mの分厚い土塁で食い違い虎口が形成している。虎口の配置からして大手を北に開いていることは明かで、南約8kmに鳥越城があることから、鳥越城の支城として機能していたであろうことが伺える。
舟岡城の創築については定かではない。「越登賀三州志」によれば、長享年間(1487〜1489)の頃、坪坂平九郎が居住しており、後に若林長門守が拠ったが、天守8年(1580)佐久間盛政が謀って若林長門を殺し、この城を奪ったという。
また信長公記によれば、天正8年11月、織田方の柴田勝家が討ち取った加賀一向一揆の指導者達の首を安土の信長の元に送ったことが記されているが、その中に坪坂新九郎の名が見えていることから坪坂平九郎の一族ではないかと考えられてる。
舟岡城付近の合戦として知られているのは、天正8年金沢御堂が陥落後、一向一揆山内衆は同年6月23日に西河口で200余人、6月28日には山内口で370余人の佐久間盛政軍を討ち取って勝利を収めており、舟岡城の位置が白山山麓山内庄の入り口を押さえる要衝の地であることを考慮すれば、山内衆の最前線基地として構築されたものと考えられる。
|
|