所在地:相生市矢野町森感状山
別 名 :瓜生城,下原山城
築 城 :鎌倉時代
初城主:瓜生佐衛門尉
区 分 :山城
遺 構 :曲輪、石垣、井戸
城 域 : −
標高 301m
比高 約250m
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羅漢の里駐車場を利用
【訪 城】2008年1月
【撮 影】2008年1月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★★ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★★ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

感状山城は相生市矢野町瓜生地区と森地区にまたがる標高301mの感状山の尾根上に築かれている。感状山の西に位置する羅漢の里から谷に入り、尾根筋にとりつく九十九折りの道を20分ほども登ると、西に延びる支尾根上に築かれた三の曲輪群に出る。
現地では曲輪構成を三の曲輪群、二の曲輪群、および一の曲輪群としているが、地形的には三の曲輪群と更に約30〜40mほどの比高差を登った二の曲輪群、および一の曲輪群の2つの曲輪群から構成される。
三の曲輪群は3段の曲輪から構成され、西側の谷筋側に出曲輪を伴っており、大手道と搦手道を睨む防御上の要となる位置にある。
各曲輪は面積が広く、きれいに削平されており開放感があってじつに気持ちがよい。東斜面の大手道虎口周辺は、石積みを多用された形跡が今でも随所に残る。
二の曲輪に至る斜面を登り切ると、登城道を見下ろす石垣が威圧的である。広く開放的な三の曲輪群と比較して、二の曲輪群は険しい斜面に築かれ小振りな曲輪が多いが、遮蔽物もなく南方に眺望が開け、曲輪が高所に浮いた錯覚を覚える。
一の曲輪は二の曲輪の北に曲輪を連ね、感状山の最高部に位置し、360度のパノラマが楽しめる。周囲は険しい地形であるが西方は緩斜面を配慮して袖曲輪を配している。

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感状山城が築かれたれた時代は「播磨古城記」、「岡城記』などによると、鎌倉時代(1192年〜1333年)に瓜生左衛門尉が築いたとする説と、建武3年(1336年)赤松円心の三男赤松則祐が築いたとする説がある。
元弘2年/正慶元年(1332年)鎌倉幕府の倒幕計画が発覚して隠岐島に配流されていた後醍醐天皇は、翌元弘3年/正慶2年に隠岐を脱出し、名和長年に迎えられ倒幕の兵を挙げた。
後醍醐天皇の挙兵に呼応し、東国の足利高氏や新田義貞等によって鎌倉幕府を倒した後醍醐は赤松氏や楠木氏に迎えられて京へ帰還した。
この時、播磨作用郡の豪族であった赤松円心は、六波羅探題の大功が認められ播磨守護職を任じられた。
元号を建武元年と改め、親政によって朝廷の政治を復権しようとするが、建武2年(1335年)、東国の乱鎮圧のため出征した足利尊氏は、鎌倉にとどまり親政から離反する。
同年、後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせたが、箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞は敗れ、建武3年正月に尊氏は入京を果した。しかし、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢の前に尊氏は、赤松円心の進言を容れて九州に下ることを決意した。
この時、赤松円心の白旗山城と共に三男赤松則祐はこの城に籠もって奮戦し、新田軍を50余日にわたり足止めをしたことで、尊氏は無事九州へ落ち延び、その後西国の武士を組織し、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り再び京を制圧した。
こうした赤松則祐の功績に尊氏が感状を与えたことから、赤松則祐の居城を感状山城と呼ぶようになったとされている。
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