所在地:豊岡市出石町内町
別 名 :出石古城
築 城 :天正2年(1574)
初城主:山名祐豊
区 分 :山城
遺 構 :石垣、土塁、空堀、堀切
城 域 : −
標高 321m
比高 約200m
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出石資料館近くに無料駐車場あり
【訪 城】2000年9月
【撮 影】2000年9月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

出石城の稲荷神社の横から登山道を登ると、5分足らずで形状もしっかりとした幅1mほどの土橋に出ます。ここから堅堀や曲輪などを横目で見ながら斜度のきつい尾根筋を直登すると、約30分ほどで有子山城の中核をなす三の曲輪に着きます。
この間随所に石積みがみられ、しばし山登りの疲れを忘れさせてくれます。
中核部は東西の尾根筋に三の曲輪、二の曲輪、および主曲輪と尾根筋に曲輪を連ねた連郭式の曲輪配置で、主曲輪の西には堀切を介して千畳敷と称される広い3段の曲輪が配されている。
これら中核の曲輪には高さ3mを越える高石垣が見事に残り、しっかりとした石積み技術を背景に石垣が組まれていたことがわかります。
有子山城は中世城郭から近世城郭に変わる過度期の城で、山中には中世城郭で用いられる堅堀や堀切、土橋が随所に見られ、また近世城郭を象徴する石垣が積まれ、異色の山城といえます。
機会を見つけてもう一度登ってみたい城のひとつです。
なお、元和元年(1615)の一国一城令により但馬では出石城一城となったにも拘わらず、有子山城の石垣には破却の跡が認められず、おそらく江戸期を通じて有子山城が出石城の詰城として機能していたことが推測されます。

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享禄元年(1528年)山名誠豊の跡を継ぎ但馬守護となった養子の山名祐豊は、山名持豊(宗全)の死後、分裂していた但馬山名氏と因幡山名氏の統一を果した。
永禄12年(1569)織田信長の命を受けた羽柴秀吉の但馬攻略によって、山名時義以来山名氏の本拠であった此隅山城を落とされた山名祐豊は堺へ逃亡したが、元亀元年(1570年)信長に臣従することを条件に但馬の領地を安堵された。
天正2年(1574)領地を回復した山名祐豊は、居城であった此隅山城の南約3kmの有子山(標高321m)に新たに築いたのが有子山城である。
天正4年(1576年)2月、信長によって京を追われた第15代将軍足利義昭が毛利輝元を頼ったことから織田と毛利の対立が深まると、強力な軍事力を有する両者の間に位置する山名祐豊は毛利方に寝返った。
天正8年(1580)羽柴秀吉による第二次但馬攻めの際、秀吉の弟・羽柴秀長に攻められ有子山城は落城し、但馬山名氏は滅亡した。
その後、天正9年(1581)には青木官兵衛、天正13年(1585)には前野長康が5万3千石をもって城主となり関白豊臣秀次の側近となったが、文禄4年(1595)秀次謀叛事件によって連座して自刃させられ、龍野城の小出吉政が封ぜられた。
小出吉政の嫡男・吉秀の代になり、有子山の麓に出石城が築かれ、有子山城は廃城となったとされる。
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解 説
■一国一城令
慶長20年(1615)5月、大阪夏の陣で豊臣秀頼と淀を自害に追いやり、大阪方に勝利した徳川家康は、元和元年(1615年)6月に大名が居住あるいは政庁とする城は1城とし、他の城はすべて廃城にするというもの。
しかし、さほど厳格に運用されたわけではなく、大藩の大名や江戸から遠く離れた仙台藩や島津藩などは「城」という呼び名を使わず多数の城郭を保有し続けた。
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出石町の観光
■辰鼓楼
辰鼓楼は明治4年(1871)旧三の丸大手門脇の櫓台に建設された鼓楼で、当時は1時間ごとに太鼓で時を告げていた。明治14年に藩医、池口忠恕氏が大時計を寄付してからは、時計台として親しまれ、出石町の観光名所となっている。
■家老屋敷
出石城の内堀の中にあった高級武士の居住として使われていたもので、外観は一見平家に見えますが、隠し二階があり不意の襲撃に備えてあります。
江戸時代における三大お家騒動の一つに挙げられる仙石騒動の中心人物仙石左京の屋敷があった場所のため「左京屋敷」とも呼ばれている。
■明治館
明治25年に兵庫県下に20軒の郡役所が建てられ、現在では3軒が残っているが、そのうち1件で木造の擬洋風建築の建物は町文化財に指定されている。
■出石名物「皿そば」
出石蕎麦の由来は、宝永3年(1706年)に信州上田から国替えになった仙石氏により伝来したといわれている。
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