
【現地への案内】
国道156号線から鷹見村役場方面に入る
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【駐車場】鷲見氏居館跡の空地に約20台ほど【訪 城】2003年6月
【撮 影】2003年6月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
鷲見城は北に鷲見川、南の支流の川に挟まれた尾根上に築城され、南側は斜度がきつく、北側からしか人を寄せ付けない。
鷹見氏居館跡からハイキングコースを登ると、約20分で本丸東側の枡形虎口に出る。枡形虎口は縦横3mほどの小さなものであるが、石積みが2段残っており内枡形虎口であることが、明瞭である。
主曲輪の西側には、一の堀切を経て西の丸が配置されている。深さは本丸側から5〜6m、幅は3〜4mと見事な堀切である。西の丸の西側尾根は二の堀切で処理されている。主曲輪東側には、東の丸を配し、この間の九十九折り状の道は堀切の通す堀底道で、大手木戸を見下ろす小曲輪等、上方からの迎撃を可能にしている。巧みな縄張りといえる。
内枡形虎口が、この城が落城した天正13年当時のものであれば、枡形という虎口形態(縄張り技術)が美濃地方にも広まっていたととになり、織豊系城郭の発達過程を考える上で興味深い。
麓の居館跡の壁面には、高さ2〜3mの石垣が観られる。打ち込みはぎできれいに積まれている。後年のものか。
【城郭の歴史】
鷲見氏は藤原北家の後裔である。初代武蔵権守頼保は永暦元年(1160)向鷲見神社に社領二石二斗余りを寄進している。
頼保が当郷雲ヶ岳における鷲狩り並びに鷲見の姓を賜り鷲見郷庄官に任ぜられこの山を居城と定めたのもこの年代である。戦国騒乱の世鷲見氏は美濃・飛騨は勿論遠く江州・京都の市街戦にも参加し、戦功数えるに遑がない。
天正13年(1585)飛騨の金森五郎八入道、越前攻略の時、その一隊来たりて襲うにあたり城主鷲見保光が戦死したので、初代頼保以来、14代426年にして遂に廃城となった。
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