| 篠脇(ささわき)城 |
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| 【城郭の概要】 所在地:郡上郡大和町牧 別 名 :郡上城 築 城 :南北朝初期 初城主:東氏村 区 分 :山城 遺 構 :竪堀,横堀 城 域 : − 標高 523m 比高 220m 県指定史跡 |
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【現地への案内】 国道156号線徳永の信号を東入る明建神社前 詳細はコチラ ![]() 【駐車場】公園駐車を利用 【訪 城】2003年6月 【撮 影】2003年6月
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【現地の状況】 篠脇城は要衝の地である郡上八幡から北へ約7km、越前大野に通じる越前街道からやや奥まってはいるが、越前街道を押さえる標高320mの山頂にあり、山形はきわめて急峻である。麓には東氏の館跡があり、一時期には東氏の詰めの城として機能していたことは間違いない。
東氏の館跡から整備された九十九折りの山道を15分ほど登ると、腰曲輪東側に巡らされた竪堀群に出る。 竪堀は腰曲輪の東斜面から西斜面にかけて配置されているが、東斜面と西斜面のものはほぼ10m〜15m間隔で放射状に掘られている上、個々の竪堀が単独で使われても十分にその機能を果たすほどの規模であるから、見事と言う以外表現が見あたらない。山城をいくつも廻って竪堀、あるいは畝状竪堀を知っている人でも、この異様な光景に驚くに違いない。 主曲輪の南側に出曲輪が配置されているが、この出曲輪に至るには今度は横堀状の巨大な堀切を2本越えないことにはたどり着けない。ここの堀が、また圧巻である。 この出曲輪の南にも横堀が配置されているが、堀幅は5〜6m、深さは約4m、形状は箱堀状で、私には「うーん」と唸る以外、言葉がなかった。 面白いのは、この出曲輪はほとんど削平されていないことと、周囲に竪堀のないことである。主曲輪周囲には40条近くの竪堀を掘っていながらである。 ここから導き出される結論は、この篠脇城の地形にあると考えられる。篠脇城は峻険な山に築城されているが、一旦尾根まで登ってしまうと、尾根上はなだらかな斜面になっており地形を利用した防御は皆無に等しい。こうした地形の弱点をカバーするのが畝状竪堀であると考えられる。一方、出曲輪は南の尾根伝いに攻め上がってくる敵に対してだけのものであり、いわば捨て曲輪に近いものではないか。 【城郭の歴史】 鎌倉時代、下総国(現千葉県)の名門、千葉氏一族である東胤行が承久の乱(1221)に戦功により郡上郡山田庄を加領され大和町剣に阿千葉城を築き、その後三代約90年間居城したが、四代目氏村の時に篠脇城に移り11代常慶までの二百数十年間、この領地を治めました。 城跡は山頂に本丸跡、二の丸跡、腰曲輪跡があり、この三段の3,500m2の城郭を囲んで放射状に三十余条の竪堀(通称臼の目堀)といい石や丸太を投げ落とし敵を撃退)を構築しています。 東氏は代々歌道に優れていましたが、中でも九代常縁は高名な歌人で古今集研究の第一人者でした。彼は連歌師・宗祇にその奥義を伝授したことで知られ、「古今伝授」の粗と云われています。 常縁が関東へ出陣中の応仁2年(1468)美濃国守護代斉藤妙椿(*)の急襲を受け、父氏数の奮戦むなしく落城しましたが、常縁が和歌十首を送り城を返されたという話が伝えられています。 天文9年(1540)越前の朝倉勢が来襲したときには、この時の城主常慶は篠脇城で敵の大軍を迎撃し退散させましたが、その翌年に八幡赤谷山城に移り、この城は廃城となりました。
(*)美濃国守護代斉藤妙椿の居城・顔戸城 【所感】 篠脇城は廃城になったのは天文9年(1540)とされるが、現在残っている放射状竪堀群を含めた遺構は、果たして天文9年当時のものだろうか。 美濃,飛騨の城を幾つか廻った限りでは、もう少し後年のものではないかとの印象を受けた。姉小路氏により改修されたものではないかと考えるが・・・・・。 いずれは、東氏が篠脇城から居城を移した赤谷山城も訪れてみたいものである。 |
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