
【現地への案内】
国道256号線から県道77号線、78号線、91号線と乗り継いでKVK(会社名)の裏手
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【駐車場】平成医療専門学院の駐車場を利用
【訪 城】2003年7月
【撮 影】2003年7月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
黒野城は城址公園として整備されている。 一辺が100mほどの方形の本丸周囲には分厚い土塁と、幅7〜10mほどの水堀が巡らされ、市街地にありながら、その遺構をよく残している。
本丸周囲の土塁は3ヶ所に折れを入れ、本丸北西,南東の土塁上に櫓台が設けられており、小さいながら近世城郭の構造を観る上で参考になる。
虎口部前面の構造が分からないのが残念だ。
【城郭の歴史】
黒野城址は加藤氏の居城で、面積17,523m2、本丸築堤の高さは5.4mあり、その周囲お堀は水をたたえて昔の面影をよく残している。西南の入口付近には今でも城門の礎石があり、周囲には惣門口,木戸,二の丸,井之上,徳田屋敷等の地名が残っている。
加藤光泰は、はじめ斉藤龍興に仕えていたが、斉藤氏の滅亡後は織田,豊臣氏に仕え、甲斐国谷村城主として、24万石を領したが朝鮮の陣中で没した。その子左衛門尉貞泰は幼く領地を減らされ、文禄3年7月(1594)谷村城より黒野城に移って4万石を領した。
関ヶ原合戦には東軍に属し、慶長15年(1610)まで15年間、居城としていたが、同年7月伯耆国米子6万石に移封となり、黒野城は短期間で終わった。元和3年(1617)伊予国大州城に移り、左近太夫と名を改め、どう9年5月に没した。
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