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国道257号線から歴史資料館へ 明智鉄道岩村駅から歴史資料館までは約1km 詳細位置はコチラ ![]()
【訪 城】200年,2008年5月 【撮 影】2008年5月
体力消耗度 ★:山道はほとんどなし ★★:10分〜30分程度の山登り ★★★:約1時間ほどの山登り
車で登る場合は、通称城山と称する山の背後から林道を使って本丸下まで登ることができます。
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ちなみに中世城郭も含めて最も高所にある城は、山梨県河口湖の東にある御坂峠に後北条氏が築いたとされる御坂城で、その標高は1571mである。 山麓の歴史資料館前には、江戸時代に城下に時を知らせる為に作られた太鼓櫓が1990年に復元され、また岩村藩校の知新館が移築され、江戸期における岩村城の雰囲気を味わうことができる。 岩村藩校の知新館横を通り、累々と築かれた石垣を見ながら登城道を登ること30〜40分で山頂の本丸に至る。 この間の石垣は、「打ち込みハギ」と「切込みハギ」の積み方が混在し、修築年代による石垣技術の変遷が見られる。また扇の勾配をもった石垣、枡形虎口など石垣造りの山城を楽しむことができる。
加藤景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の性を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。 戦国動乱の時代に入り、武田信玄の家臣秋山信友が天正元年(1573)に岩村城を奪取して入城したが、同3年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森欄丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と28年間にめまぐるしく交代した。 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏二代、丹羽氏5代のあと大給松平分家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。 明治維新により廃城となり、建物などは明治6年(1873)に取り壊された。
これに対し織田信長は、岩村城周辺に18の城砦を配して対抗したとされる。この18の城砦については甲陽軍艦や信長公記等々に諸説がある。 土岐市史では、これらの文書の記述から総合的に判断し、高山城,苗木城,串原城,瀬戸崎城,大井城,中津川城,妻木城,明智城,飯羽間城,今見城,阿寺城,孫目城,幸田城,千駄林城,大羅城,神篦城(鶴ケ城),鴨居城の18城としている。 天正2年(1574)3月、信玄亡き後、局面打開を狙う武田勝頼は3万余の軍勢を率い、東美濃に攻め入ると織田方の諸城を落とし、遠山勘右衛門が守備する明智城に迫った。 この知らせを受けた信長は、織田信忠に命じて3万余の援軍を送り、明智城を攻める武田軍と対峙するが、進展の無いまま明智城は落城する。この余勢を駆った武田軍は飯羽間城をも攻め落とした。 明知城を落とされた信長は高野城と小里城の普請を命じ、高野城には森武蔵守長可、小里城には池田勝三郎を入れて備えとした。 天正3年(1575)6月、長篠で勝利した信長は、余勢をかって武田の秋山信友・座光寺勘左衛門氏定等2,000余の守る岩村城を攻めた。 武田勝頼は木曽義昌と共に兵2,000を送り援軍とし、自らは天正3年11月に甲府を出発したが、勝頼の到着を待たずして岩村城は落城した。 岩村城を落とされた勝頼は奪回を狙い、高遠城城主・保科正直を将として、岩村城南方の遠山与助の砦を落とし、岩村城を攻撃したが岩村城に籠もる妻木氏らの奮戦もあり、岩村城を落とすことなく勝頼は撤退した。 なお、武田軍が岩村城を攻略した時期については、2つの説がある。ひとつは、青崩峠から遠江に入った武田信玄が秋山信友を美濃に侵入させ、岩村城を落とした元亀3年(1572)説であり、もうひとつは三方が原で勝利した後、馬場美濃守等、武田軍の本隊が天正元年3月15日に岩村城を攻略した天正元年(1573)説(甲陽軍艦)である。 |
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