所在地:岐阜市天守閣
別 名 :稲葉山城
築 城 :建仁元年
初城主:二階堂行政
区 分 :山城
遺 構 :天守閣,石垣
城 域 :1,300×1,300m
標高 336m
比高 308m
市指定史跡
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国道256号線長良川南、岐阜公園麓
詳細位置はコチラ

専用駐車場あり
【訪 城】2001年5月
【撮 影】2001年5月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

岐阜城は美濃平野を一望する金華山山頂に築かれている。この金華山、遠くからみるとなだらかな山容をしているが、麓に立つとその急峻さに驚かされる。峻険な山頂に築かれた岐阜城を見ていると、当時信長が理想としていた城が、こうした峻険さを備えた山城ではなかったかという思いに駆られた。
領土拡大、天下統一への夢が進むにつれて、京に近い比高100mほどの安土山に居城を移す中、居城の比高が次々に低くなっていくという現実との狭間で、信長は安土城をなんとか岐阜城に近づけようとした結果が総石垣の城になったのではないかと考えています。
また、信長が武田信玄をはじめ他の戦国大名と比較して卓越した時代感をもっていたとされるのが、居城を清洲城から小牧城、そして岐阜城と移し、最終的には安土城と次々に移すことで兵農分離をすすめ、戦うプロ集団を作ったとされている。
しかし、信長は兵農分離を進めるために居城を移したのではなく、平城・清洲城から平山城・小牧城へ、そして最も信長の理想に近い山城の岐阜城へと居城を移した結果が、家臣等に土地への執着心を捨てさせ、戦う集団を組織する兵農分離が進んだと考えています。
金華山山頂へはロープゥエーでも上れますが、是非とも歩いて登って欲しいと思っています。山頂へは馬の背道で約20分程度、瞑想の小道からだと30〜40分分程度で登ることが出来ます。その他に百曲道,七曲道等四つのルートがありますが、馬の背道を登られる場合は足下を固めてから登って下さい。

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斉藤道三が油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃一国から征服したことはNHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
しかし、最近発見された観音寺城城主・大名六角承禎書状から道三の前半生は父の長井左衛門尉のことであり、後半生が道三の事蹟ということが分かりました。
道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通と七曲通に住人を集めて城下町をつくりました。また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて商取引を盛んにしました。
天文23年(1554)道三は突然隠退して父子の対立が生じ、弘治2年(1556)長良川の戦いで討ち死にしました。
義龍は戦国大名として領国経営に力を注ぎましたが、道三死後わずか6年で突然病死し、跡を継いだ幼い虎福丸(義興)が継ぎました。しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長簿攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)家臣である岩手城城主・竹中半兵衛重治らによって、稲葉山が一時期占拠される事件が起きました。その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。
永禄10年(永禄7年とも云う)斉藤龍興を稲葉山城から追放した信長は、井之口を「岐阜」と改称し、「麟」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用しはじめ、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町つくりに着手しました。
稲葉山城は岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行い、斉藤氏の居館を壊して館の建設を始めます。また、城下町の繁栄を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城2年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは町の様子を「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと本国に報告しています。
天正3年(1575)信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌4年に安土城を築いて、ここに移りました。天下統一へ大きな前進をしたのですが、天正10年(1582)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、信忠と共に京都で討ち死にしました。
その後、文禄元年(1592)、豊臣秀吉は信長の孫秀信(幼名を三法師丸)を岐阜城主に封じました。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で秀信は家臣の反対を押し切って西軍に味方したため、東軍に攻められて8月23日落城、秀信は降伏し、高野山に送られて同地で死去しました。
関ヶ原の合戦で徳川軍に攻められ開城した岐阜城は、翌慶長6年に廃城となり、天守閣、櫓などは加納城に移された。明治43年になって模擬天守閣が建てられたが、昭和18年に火災で焼失。現在の天守閣は昭和31年に再建されたもの。
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