| 安国寺恵瓊陣 |
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| 【城郭の概要】 所在地:不破郡垂井町宮代 別 名 : − 築 城 :慶長5年(1600) 初城主:安国寺恵瓊 区 分 :山城 遺 構 :曲輪,土塁 城 域 : − 標高 214m 比高 146m |
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【現地への案内】 国道21号線垂井町から南宮大社へ 詳細はコチラ ![]() 【駐車場】南宮大社駐車場を利用 【訪 城】2005年3月 【撮 影】2005年3月
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【現地の状況】 関ヶ原の戦いの際、安国寺恵瓊が陣を構えた場所として、南宮大社から南宮山ハイキングコースに入って約5分ほど登った所に案内板が立てられている。 しかし、現地が林道や砂防ダム等でかなり改変を受けており、ハッキリと陣跡であることを確認する遺構などは残されていないようである。 関ヶ原の戦いでは、南宮大社が安国寺恵瓊陣として焼き払われていること、および 安国寺恵瓊軍は約6,500人が陣を構える場所としては、南宮大社から背後の丘陵地一帯と考えるのが妥当であろう。南宮大社の背後の林の中には、曲輪として利用されたのか、削平地があちこちに認められる。 なお、南宮山の山頂には毛利秀元陣がある。 ![]() 【城郭の歴史】 安国寺恵瓊は安芸の守護武田氏の遺児といわれています。武田氏滅亡後、安芸安国寺で出家しました。毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。 関ヶ原合戦では石田三成等と共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込むことに成功しました。合戦当日は南宮山の麓に陣を構えましたが、吉川広家の裏切りで動くことが出来ず敗戦後逃亡、京都に潜んでいる所を捕まり六条河原で斬首されました。
当初西軍は天下分け目の戦いを大垣城と考えて、佐和山城城主・石田三成を筆頭として大垣城に籠もっていたが、徳川家康は大垣城を横目に中山道を下ったことで、戦場は関ヶ原と変わった。 戦場が変わったことで、西軍の総大将である毛利秀元陣や安国寺恵瓊陣、あるいは長宗我部盛親や長束正家の陣は戦場である関ヶ原とは全く関係のない大垣城に向いて築かれている。 |
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