明智城
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【城郭の概要】
所在地:恵那郡明智町字城山
別 名 :白鷹城
築 城 :宝治元年(1247)
初城主:遠山三郎兵衛景重
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,竪堀,横堀
城 域 :150m×70m
     県指定史跡


出曲輪南側の横堀と竪堀

【現地への案内】
 国道363号線明智町、明智駅前から県道33を東へ約1km

詳細コチラ 

【駐車場搦手登城口前に空き地あり、10台程度可
【訪 城】2000年8月,2002年3月
【撮 影】2002年3月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★★  
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 搦手から登る。人工的に削られた切岸は高いところで10mを越え、まるで谷に入ったような錯覚を覚える。本丸北砦を経て北側へ廻ると谷筋に近接して掘られた竪堀が5本並んでいる。5本の竪堀うち4本は長くはないが、緩斜面の谷筋から侵入する敵を分断して個別撃破する思想が窺える。最も西の竪堀は長大で、この竪堀に伴う竪土塁は長さ30mほどにもおよび、まるで壁を思わせる。
本丸周囲を進むにつれて、この場所が空堀であることに気づく。横堀と竪堀を組み合わせた見事は防御施設である。
 東に延びる支尾根上には階段状に曲輪が配置され、高低差のある切岸は敵の侵入を防ぐには十分な高さである。

 本丸北側から始まった横堀は本丸西から南までほぼ一周するように巡らされているが、搦手(東側)だけは広く開口しているようにみえる、敵を空堀に誘い込むためか、ここで、搦手を見下ろす位置にある本丸北砦の重要さが再認識される。
 本丸西側には折れをいれた虎口があり、この虎口を補強するように空堀とドッキングさせた形で竪堀が掘られている。南側に廻ると横堀は大手道に当たり、とぎれているが大手道をまたぐと、更に堀幅を広げて谷に落ち込む。大手道を防御するのは大手道土橋を見下ろす位置に三の丸下砦と前面の曲輪である。この三の丸砦前面の曲輪の後方には新たに横堀が巡らされ、南側尾根の大堀切とつながっている。
 本丸南側においては出曲輪が防御の要となっており、出曲輪周囲をめぐる横堀から見る切岸は角度もほぼ垂直に近い。

 明知城には登城口が四つある。この城郭規模で四つの登城口はいかにも多いが、それぞれの口は見事な防御が敷かれており、攻め上る敵に寡兵で対応できるよう実に考えられた縄張りだと感じた。

 明智城は明智光秀誕生の城とされているが、この他にも明智長山城(可児市瀬田)だとする説もあり、本当のところは分からない。

【城郭の歴史】
 明智町は恵那郡西南部の盆地にあり、北は苗木・岩村、南は愛知県足助・岡崎、西は土岐郡、東は長野県飯田にそれぞれ通じる街道の中継地で、地理的には岩村城と同じように、信濃・三河両国と美濃国との境界に位置する要地であり、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。
 武田信玄に従っていた遠山氏は、岩村城城主の病死を機に織田信長に従い、武田氏に叛した。そこで信玄は元亀3年(1572)11月、高遠城城主秋山晴近(信友)に岩村城を攻略させ、12月に至って、明知城城主遠山景行・苗木城城主遠山勘太郎・飯羽間・串原および足助の諸将を破った。
世にいう上村合戦である。この時、明知城は陥ち、岩村域と同様、武田方の持城となった。
天正元年(1573)4月に武田信玄が病没し、同3年5月、織田信長は長篠の合戦で武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠をして岩村を攻めさせた。この攻撃で明知城は岩村城と共に落城し、遠山利景(遠山景行の長子景玄の弟)は徳川家康のもとに逃れたが、同10年6月の本能寺の変ののち明知城に入った。
その後、元和元年(1615)閏6月の一国一城令で、幕命によって廃城となる。

【現地案内板の紹介】
 宝治元年(1247)明智遠山氏の始祖、景重の築城とされ、遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で土盛砦として保塁数大小23ヶ所あり、落城後、原形のまま残っているのは日本でも数少ないとされ、県の指定文化財となっている。
 重要な砦に石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えた館五棟があった。
 明智城の落城は、天正2年(1574)3月12日、武田勝頼は父信玄の遺図を果たそうと、一万五千の大軍をもって明智城に襲いかかった。城主遠山一行、叔父利景らは兵六百でこれを死守し、急を織田信長に報じた。信長は明智城を失うことによって美濃、尾張、三河、遠江、駿河の覇権を一挙に粉砕されるおそれがあると、子信忠、そして明智光秀を奈良多聞城から呼び寄せ、援軍三万をもって自ら西八丁の鶴岡山に布陣した。
 勝頼は甲州軍の誇る騎馬軍団の将、山県三郎兵衛昌景に命じて六千の兵で信長の退路を断った。信長は山岳戦の不利を知って光秀をなだめ、決戦を避けて後退した。
先の上村の戦いで大方の精鋭を失い、今、援軍に見放された城中では既に矢つき刀折れ、材木、岩石などを落として孤軍奮闘したが、城下は火の海となり、敵の兵馬はひしめき、風林火山の旗と鬨の声は城外にみちみちていた。
やがて搦手水の口曲輪が破られ城郭にも火をかけられ、あえなく討ち死にするもの五百を数えた。そこで城主一行、利景等は再起を図り夜陰に乗じて足助城に逃れ、徳川家康の庇護には云った、悲惨な明智城の落城であった。    


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