| 所在地:大飯郡高浜町宮崎 |
| 別 名 : − |
| 築 城 : − |
| 初城主:逸見駿河守昌経か |
| 区 分 :山城 |
| 遺 構 :土塁,堅堀,堀切 |
城域 :1000m×600m
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| 標高 142m |
| 比高 130m |

国道27号線源治の交差点を南に約300m、佐岐治神社へ
JR小浜線、若狭高浜駅から徒歩10分
詳細位置はコチラ 
佐岐治神社の駐車場を利用
【訪 城】2008年5月
【撮 影】2008年5月
| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★★ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
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★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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砕導山城は標高143mの砕導山を中心として、標高120mの千丈ヶ嶽、および標高72mの天王山一帯に築かれた南北600m、東西1kmの広大な領域を有する福井県最大の山城である。
佐岐治神社の北側に位置する広峰神社の背後から支尾根を登ると、階段状の曲輪が延々と続く。階段状の曲輪切岸はほぼ垂直で手がかりなしでは登れない。
支尾根を登り切り、東西に走る尾根を東に登ると砕導山城の中核部に至るが、この間2条の堀切と無数の曲輪が配されている。
主曲輪は直径30mほどの円形の曲輪で、東側に二の曲輪、三の曲輪と連ね、南側斜面には4条の竪堀、東側は竪堀,土橋と防御を固め、防御パーツのオンパレードである。
山頂、および尾根筋からは雑木のため見通しがきかない上、コンパスを持っているものの地形図は頭の中といった準備不足で、下山は想定したコースとは違い、天王山山頂から佐岐治神社の反対側の山麓へ降りてしまった。
訪城される時には、コンパスと縄張り図は必携の山城である。
天王山の尾根、および千丈ヶ嶽には多くの曲輪が配されているが、すべてを見て廻るには1日はたっぷりかかるのではないか。
砕導山城の城主・逸見氏は若狭武田氏の一門衆として重きをなしたが、永正14年(1517),天文7年(1538),永禄4年(1561)、および永禄9年(1566)と4回も反乱をおこしており、特に永禄4年の反乱の際に拠点となったのが砕導山城である。
砕導山城は逸見昌経が永禄4年1月に丹波守護代松永長頼(蓬雲軒宗勝)、栗屋氏の一部等と結んで守護武田義統に叛逆した時、8,000人ともいわれる連合軍を収容するために急遽拡張したことによると考えられている。
砕導山城に楯籠もった逸見昌経、松永長頼を武田義統を支援する越前朝倉氏が攻めたと伝えられ(厳助往年記)、6月27日朝倉氏が高浜を攻略したことで、逸見昌経、松永長頼は退散した(当国御陳之次第)とされる。
永禄8年(1565)逸見昌経は高浜町事代に高浜城を築城しており、砕導山城は出城として存在したことが窺えるが、天正9年(1581)の昌経病死後は当城となった。
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