所在地:勝山市平泉寺町
別 名 : −
築 城 :南北朝期
初城主: −
区 分 :平城
遺 構 :土塁
城 域 :110m×140m
県指定史跡
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路上駐車
【訪 城】2007年5月
【撮 影】2007年5月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

平泉寺跡と称される地域は、平成9年3月に平泉寺が国指定史跡に指定された平泉寺地区の東西2km、南北1kmの範囲で、指定された時に名称も「白山平泉寺城跡」から「白山平泉寺旧境内」に変更されている。
平泉寺旧境内には縦横に石畳の道が通り、南谷坊院をはじめ多数の坊院跡が林の中に眠っている。
白山平泉寺は室町時代には9万石の寺領と48の神社,26の堂と6千を数える坊院が建てられていたと云われている。
越前では享徳元年(1452)に起きた長禄合戦で朝倉孝景が台頭、応仁元年(1467)の応仁・文明の乱をきっかけにして、文明13年(1481)には朝倉氏が越前を統一する。平泉寺は朝倉氏の支配下に入り、朝倉氏の祈願所となった。
天正元年(1573)江北小谷城の戦いで織田軍に敗れた朝倉義景は一乗谷城を捨て、大野平泉寺の力を利用し、信長に対抗しようとするが、平泉寺は大野を支配する戌山城の義景の従兄弟・朝倉景鏡(かげあきら)と組んで義景を裏切り、朝倉義景は宿舎の六坊賢松寺で自害し朝倉氏は滅びた。
天正2年(1574)一向一揆が蜂起し、一揆勢は平泉寺が朝倉義景を裏切ったことを理由に攻め、平泉寺は焼き放たれ灰燼と帰した。
その後豊臣秀吉などの崇敬を受けて再興するが、明治時代に入り神仏分離令により寺号を捨て現在の名前になった
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