所在地:南条郡南越前町二ツ屋鉢伏山
別 名 : −
築 城 :永禄12年(1569)
初城主:朝倉義景
区 分 :山城
遺 構 :土塁,空掘,堀切
城 域 :320m×100m
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国道365号線から今庄365スキー場方面に入り、スキー場を抜けて木ノ芽峠

路上駐車
【訪 城】2005年7月
【撮 影】2005年7月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り |

鉢伏城は隣接する観音寺丸城,木ノ芽峠城、および西光寺丸城を合わせて木ノ芽峠城砦群と称されている。
越前から近江を経て京へ上るには、二つのルートがある。ひとつは敦賀の疋壇から北国街道〜長浜へと中山道に抜けるルート、あとひとつは疋壇から若狭街道に入り琵琶湖西岸の西近江路を辿る街道であるが、いずれのルートも今庄から疋壇間は北国街道の難所とされる板取を通るか、大きく迂回して今庄〜木ノ芽峠〜疋壇のルートを辿ることになる。
天正3年(1575)織田信長が越前の一向一揆を制圧した後、越前8郡49万石を与えられた柴田勝家が、越前と安土城を最短距離で結ぶ板取〜木ノ芽峠の道を整備するまでは、今庄〜木ノ芽峠〜疋壇のルートが主要な街道として利用されていた。
木ノ芽峠城砦群は、この木ノ芽峠を押さえる目的で築城されたもので、木ノ芽峠を挟んで東に西光寺丸城、西に木ノ芽峠城,観音寺丸城、鉢伏城と尾根上に連なって位置しており、距離的に離れた西光寺丸城と鉢伏城を除いた2城(木ノ芽峠城と観音寺丸城)はひとつの城として機能していたと考えるのが妥当である。
木ノ芽峠から観音寺丸城を経て約25分、鉢伏山の山頂付近に築城された鉢伏城に着く。この間案内板はあるが間隔が長いため、道を間違ったのではないかと少々戸惑う。
主曲輪の虎口前面に大きな空掘を配置し、土橋を経て曲輪に入るようになっているが、この空掘もクマザサで覆われ全貌がつかめず。
主曲輪には、西光寺丸城と同様に3つの平虎口がある。曲輪規模からも3つの虎口は多すぎるが、機動性を持たせるためと考えられる。
距離的に見ても他の木ノ芽峠城砦群よりも独立性が高いが、堀切や横堀など防御施設が少ない。これは西(海側)に位置する杉津砦との連携の中で築城されているためではなかろうか。
永禄12年、朝倉義景が木ノ芽峠に城を構え、家臣の堀二郎三郎を置いた。朝倉氏滅亡後、織田信長は堀次郎,阿閉淡路守,磯野丹波守に守らせたが、越前は“一揆持ちの国”となり、天正2年(1574)8月に、一向一揆衆に攻められ堀次郎の陣代樋口三郎兵衛は開城。
天正3年(1575)8月、信長は約5万の軍勢を仕立て、徳川軍1万3千、柴田勝家軍1万2千の他、合わせて約10万の軍勢で越前攻めを行う。(朝倉始末記)
これに対し一揆衆は板取城に下間頼俊、木ノ芽峠には西光寺勢力、鉢伏山城には阿波賀三郎兄弟、今庄の燧ケ城には大将の下間頼照が入った。(信長公記)
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この城は元亀元年(1570)織田信長が越前に侵入した際に、朝倉方によって築かれ、家臣の印牧弥六左衛門が守ったという。その後、織田方や一向一揆勢も立て籠もった。
市は木ノ芽峠から北西約700mの鉢伏山(標高762m)にあり、山頂部から北西に下降する尾根上に築城されている。城の規模は長径320m、短径100mあり、木ノ芽峠城砦群の中で最も大きい。
城のつくりは大きく2つの曲輪に分けられるが、周囲に土塁を巡らした山頂部の曲輪が中心となっている。海側の尾根の2つの曲輪は海岸部からの敵の侵入に備えてものである。城の大手は南東部で二重の堅堀の間が土橋となっており、搦手は北西部の海側である。
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