
【現地への案内】
国道301号線と県道39号線の交差点・九久平町の信号を東へ、約500m
詳細位置はコチラ 
【駐車場】路上駐車
【訪 城】2003年4月
【撮 影】2003年4月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★★☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
足助街道の松平地区から国道301号線を西に3kmほど走ると、右手に大給城の石碑がある。路上駐車をして、約10分ほど山道を登ると、右手に空堀、左手に掘切、ここからが城域となる。
城内は手入れがしっかりとされていて、雑草もなく遺構がはっきりと見られるのは嬉しい限り。見所は幾つかあるが、その一つは堀切を越え、切岸を登り切った所に現れる石積みの虎口。
虎口を抜けて曲輪内部からみる土塁は高さと云い、厚みと云い、重量感たっぷり。
更には、主曲輪に築かれた牛蒡積みの石垣、曲輪のあちこちに点在する巨石等々、一風変わった面白い城である。なお、大給城へ登る途中に松平乗元の墓がある。
後で気がついたのがだ、なんとこの大給城は国指定史跡にとなっていた。ここにも戦国の勝者・徳川の影響力が現れているような。(^^;
大給城を国指定史跡にするのがおかしいというわけではないが、他にも国指定史跡にして欲しい城はいっぱいあると云いたい。
どうも、徳川は好きになれない。(^^)
【城郭の歴史】
大給城跡は西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204mの急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。
城の東西には尾根づたいに攻めてくる敵の侵入を防ぐために、堀切A,Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(入口)Cを抜け、曲輪2を経て主曲輪1へと至る。城内の至る所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見台と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことが出来る。岩上には一辺数cmの穴が並んでいるが、いつ何のためにあけられたかは不明である。D,Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主曲輪1から南に下がったところにある3は城主の館跡と考えられる。
本城はもと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家3代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四男)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平の初代となった。大給松平二代乗正は永正7年(1510)までに城の大改修を行った。以後、乗勝,親乗,真乗と続き、天正18年(1590)六代家乗の時徳川家康の関東への国替えに伴って上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。
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