所在地:知多郡美浜町大字河和字西谷
別 名 : −
築 城 :長禄年間(1547〜60)
初城主:戸田孫八郎
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,空掘,櫓台
城 域 : −
比高 30m
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知多厚生病院の東側に位置する小山
詳細位置はコチラ
駐車:路上駐車
【訪 城】2006年5月
【撮 影】2006年5月
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| 評価項目 |
見所評価 |
| 選地 |
★★☆ |
| 縄張り |
★★☆ |
| 普請 |
★★☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
★:山道はほとんどなし
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り
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知多厚生病院の正面玄関の東50mほどのところに山の中腹に建てられた団地に通じる道があり、入り口に河和城の案内板が立てられている。
この道を200mほども登ると右手に「立ち入り禁止」の空地がある。ここから河和城の主曲輪へ登る階段がつけられているが、途中土砂崩れで危険な状態になっている。登れなくはないが、細心の注意が必要。
この空地より更に100mほども道を上がると、比較的なだらかな斜面があるので、ここから山中に入るほうが無難。
河和城は小さな小山を利用して築城されているが、東〜北側斜面は全く登る手がかりさえない崖状をなし、北側を流れる川と相まって、要害地形を形成している。
比較的なだらかな西側斜面は階段状に曲輪を設け、比高差のある切岸と空掘で鉄壁の構えとしている。
南側斜面は宅地の造成で山形が崩されており、どのような防御施設があったのか不明。
主曲輪は南北に長い砲弾型をしており、南北50〜60m、東西30〜40mと大きく、南東隅に櫓台を配している。

主曲輪の切岸 |
西側斜面に曲輪を集中して配置し、知多厚生病院までの比高差30mほどの間に3〜4段の曲輪が設けられている。曲輪が作り出す比高差5〜6mの切岸が防御の中心であるが、主曲輪直下には空掘と切り出しの土塁も配している。
こうした曲輪配置から西側が大手であったと考えられるが、明瞭な虎口は認められない。
長禄年間(1457〜59)渥美半島の田原から進出してきた戸田宗光により、知多半島東岸を確保するためこの山に砦がつくられた。その子の憲光の代になり城としての体裁が整えてきた。憲光は本拠の田原城城主としても功成り名を遂げ戸田氏の繁栄安泰にした英主である。
やがて憲光は永正6年(1509)に嫡男政光に田原城をゆずり河和城に移り住んでいた。憲光の次は養子の孫右衛門繁光につがれ、三代城主は戸田孫八郎守光で天正17年(1585)若くして小田原の合戦において戦死したため河和城は廃城となった。
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観光
■えびせんべいの里
南知多自動車道、美浜ICを降りるとスグに、えびせんべいの里がある。
各種えびせんべいを販売、試食は食べ放題、お茶やコーヒーのサービスもあり、是非とも立ち寄りたい。(^^)
■野間大坊
平治の乱で敗れた源義朝が東国に落ち延びる途中、家臣の長田忠致をたより野間で逗留していたときに長田父子に討たれた。その義朝の墓が野間大坊の一画にある。
また、義朝の墓の横には、天正11年に羽柴秀吉に敗れ、野間の地で自刃に追い込まれた織田三七信孝(信長の三男)の墓もある。
義朝が湯殿で襲われた地である法山寺、信孝が自刃した安養寺も近くにあり、是非とも併せて廻りたい。
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日帰り温泉情報
■白砂の湯
知多郡南知多町内海浦向54-15
TEL 0569-62-2600
・大人 1,000円
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