
【現地への案内】
JR刈谷駅より西へ、約2km
細位置はコチラ 
【駐車場】刈谷駅から徒歩で行ったので分かりませんが、どこにでも止められそうです。(^^;
【訪 城】2004年10月
【撮 影】2004年10月

| 評価項目 |
見所評価(三段階評価) |
| 選地 |
★☆☆ |
| 縄張り |
★☆☆ |
| 普請 |
★☆☆ |
| 体力消耗度 |
★☆☆ |
| お勧め度 |
★★☆ |
★が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
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【現地の状況】
刈谷城は逢妻川,境川,石ヶ瀬川、および岡田側川の合流点の東岸に位置し、後堅固の地形に築城されている。
現在では亀城(きじょう)公園として整備・保存され、東側に水堀が残るが、公園周囲は住宅地,道路,球技場などと地形的に変化を受けすぎて、築城当時の城の様子がよく掴めない。
しかし、「亀城」という名前の由来からすると、周囲を堀や川に囲まれ、水面に出た亀のように城が浮かんでいたのではないかと想像される。
近くの刈谷図書館分館は土井氏が西尾藩主であった頃の藩校・文礼館の跡地に建てられたもので、この刈谷図書館分館には西尾藩時代の儒者である細井広沢によって書かれた文礼館篇額(市指定文化財)が展示されていると云う。
【城郭の歴史】
亀城公園は旧刈谷城の本丸と二の丸の一部にあたる。刈谷城は天文2年(1533)水野忠政の築城で亀城とも呼ばれ、徳川家康の生母、於大の方の育った城である。
城主は水野家のあと、水野(分家)、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、安部、本多、三浦と続き、土井家が2万3千石で廃藩まで在城した。
廃藩後、一時国の所有となった刈谷城は旧士族に払い下げられ、昭和11年(1936)には刈谷町がこれを譲り受けた。昭和16年(1942)太平洋戦争が勃発、戦争末期には城跡の高台が高射砲陣地となり、鬱蒼としていた大木も切り払われ、荒れ果てた姿となった。しかし、戦後しだいに整備が進められ、昭和44年に至り、当時愛知教育大学教授であった大野元三氏の構想により高台一帯を日本庭園に造成し、その後も度重なる整備により、現在の亀城公園となった。
現在は桜の名所として知られ、四季折々の花も美しく、小鳥のさえずりも聞こえる由緒ある公園である。
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